Little Girl

Sugar Boy Williams


03-09-29
Sorry, this is not the column about Nobel Peace Prize Laureate of 1997, Ms. Jody Williams.
The column is about Joseph Leon "Jody" Williams, Chicago Blues Star.



針を落とし(そ、アナログ盤なのよん。When Girls Do It Red Lightnin' RL 006ね)、スクラッチ・ノイズを超えて飛び出してくるギター・・・ ああっ!これ、似てる!フンイキだけだけど
Otis Rush の All Your Love じゃん?
こちらは Am からのマイナー・ブルースなんだけど、10小節目がサブドミナントじゃなくドミナントのまま、ってとこがユニーク(ってほどでもないか?)。
実はこの曲、彼自身が1957年に Argo に吹き込んだ Lucky Lou を1960年にリメイク( Lightnin' Records の Peter Shertser による)したものらしいです。
そのモトとなった Lucky Lou が Otis Rush によってパクられ(?)たため、そのアンティテーゼとして吹き込んだのでしょうかね?
マイナー・ブルースながら「ジットリ感」は薄く、意外とアッケラカンとしたキャッチー(あまりブルース業界では出てこない単語かも?)なナンバーとなっています。

Sugar Boy Williams こと Joseph Leon "Jody" Williams は、1935年 2月 3日、Alabama 州で生まれています。ザンネンながら、それ以上詳しい出生地の資料は発見出来ませんでした。Chicago には 6才の時に来ている、とありますから、モチロン自分の意志じゃあなく、家族が揃って北上してきたものと思われます。
時あたかも第二次世界大戦にアメリカもひきずり込まれることになる Pearl harbor がその年の12月 7日に控えているワケなんで、その後どのよーな少年時代を過ごしたんでしょね?イロイロ資料を漁ってみたのですが、その時期に触れた記述が見当たらないんですよ。
いつも、こーやってそのブルースマンのおイタチ・・・ じゃなかった生い立ちを追ってって、イチバン面白いのがその辺りなんですが。どうやってデビューしたのか、そのブレイク・ポイントが「知りたい」ワケです。だから、デビューもハタし、だんだん有名になってって、次々アルバム出すコロのハナシはあましキョーミが無い、っちゅーか薄れちゃってるんですよ。いままでの BLUES日記でも、その辺は手を抜いてます。
だからこの Sugar Boy Williams こと Jody Williams みたく、どーやってギター弾くようになったのか?どうやって弾けるようになったのか?なんてえトコがドカっと脱落してるとヒジョーにサビシいざます!

ま、それはともかく、1951年には Chicago の街頭で Bo Diddley と一緒に演奏していたそうです。計算ではまだ16才ってことになりますね。それが1950年代の中頃には、その Bo Diddley の初期のナンバーのセッションに参加してもいますが、彼の名がブルース・シーンで「知られる」ようになったのは、やはりウルフのバンドに一時在籍していたことが大きいでしょう。
そこで彼が関わったナンバーとしては、Forty Four、Evil、Who Will Be Next が挙げられます。ただし、ウルフのバンドにあっては、後から登場した Hubert Sumlin にその座を譲っているのは皆様ご存知のとおり。Hubert Sumlin はインタビューで、「ウルフが紹介してくれて、( Jody Williams に)『こいつ(つまり Hubert Sumlin ね)にイロイロ教えてやれ』って言ってくれて、Jody Williams はオレにギターの弾き方とかを教えてくれるんだが、どれももう知ってるコトか、オレのほーが知ってるようなもんだった」、だそうでございます。
ま、そこら、ブルースマンはみんな(は語弊があるか?)ホラ吹きだから、このハナシもどこまでホントだか判りゃしませんがね。
それでも1950年代後半から1960年代の前半にかけて、Chess、VeeJay、Cobra、そして Mercury などのレーベルにサイドマンとしての仕事を残しています。
Billy Boy Arnold の I Wish You Would、Jimmy Rogers の One Kiss、そして前述の Bo Diddley とは Who Do You Love に I 'm Looking For A Woman をレコーディング。
そのようなサイドメンとしての仕事とは別に、1955年には Little Papa Joe として Looking for My Baby を、1957年には Little Joe Lee(この Lee ってのは Leon から来てるんでしょーか?)として例の Lucky Lou と You May、さらに1960年にはこの Little Girl と Five Long Years を Argo に Sugar Boy Williams の名前で吹き込んでいます。この最後の二曲が Red Lightnin'に収録された、っつーワケ。

でも、彼はそんな自分の音楽的素養にギモンを持ったのか(一説では Otis Rush に特徴的なリックを盗まれ、さらに Micky Baker にも彼が Billy Stewart のために作ったリックを盗用されて、このビジネスにすっかり嫌気がさした、としてる資料もありますが)、『Red Lightning』と名付けられた1962年製 Gibson ES-345TD をケースにしまい込み、ベッドの下に押し込んだまま、コピー・マシーンの Xerox 社のエンジニアとしての生活を選んだのです。
こうして彼は James Walker に言わせれば「シカゴ・ブルースの失われた環( the missing link in Chicago Blues )」となったのでございますよん。

月日は流れ、その間に彼は家族との生活を確立し、シカゴのサウスサイドに家を買い、完全に音楽業界からは姿を消してしまいました。そのため、事情を知らないブルース・ファンは彼がすでに死亡しているもの、と思ったようです。
1994年に Xerox の技術者としての仕事を退き、老後(?)の生活を考えたときに、ふたたび音楽に関わることを決意したようで、当時の彼のドラマーが保存していた1964年当時の録音テープを聴くことが出来た時、思わず「もう、こんな演奏は二度と出来ないのだ」と涙が止まらなかったといいます。
しかし、彼は後にインタビューで「ブルースはここ(アタマ)とここ(ハート)にある。ただ手が衰えてしまっていた」と答えた通り、かなりな努力でスキルを取り戻すことに集中し、まずは当時の音を再現することを目標に練習を重ねました。
こうして彼は往時のプレイアビリティを復活させることに成功し、まず Netherland のフェスティヴァルに出演し、ついには2001年の Chicago Bluesfest でのスタンディング・オヴェーションを味わうこととなりました。

その年の秋には彼とプロデューサーの Dick Shurman はスタジオに入り、彼にとっての「初の」ソロ・アルバム Return of a Legend を製作しました。実に 40年の年月を超えて Lucky Lou や You May が蘇ったのです。このアルバムには Sean Costello( b.1979, Philadelphia, Guitar & Vocal, Landslide Recording Artist )、Rusty Zinn( b.1970.4.3, Long Beach, CA. Guitar/Singer-songwriter, Alligator Recording Artist )、Tinsley Ellis( b.1957, Atlanta, "I'm a rock and roller who plays the blues,")、さらに古い馴染みの Billy Boy Arnold までがヴォーカルで参加しています。

現在はそのかっての職業のなせるワザか、エレクトロニクス系のガラクタ(?)に囲まれて、ハイド・パークのアパートに住んでいるようですが、2002年にはお馴染みのパーク・タワーのために来日しております。この時に抽選で見事にギターが当たった幸運な方が、なんと先日の「ぶるうすまにあの巣」公開セッションに「二人も」揃ったのでございました。



夏でもないのに昼前にものスゴい土砂降りがあり、屋根が低音で唸るような大きな水滴が大量に落ちて来ました。
でも、30分もすると雨もやみ、また陽がさして来て、なんだか夕立ちみたい・・・
その後も降ったり照ったりの変化のハゲしい日になりました。
夕方にはなんとか晴れて雲も無くなった空になりましたが、ほんと、ヘンな天気だよねー。
permalink No.526

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