Ballbuster

Carey and Lurrie Bell


03-10-07
え?また Carey Bell?なんてえ声が聞こえてきそうですねえ。
過去の BLUES日記で複数回登場してるのは、あまりの長文につき 3分割して三日連続ブチ抜いた Eddie Taylor と、ワタクシの愛するテキサス・ブルースマン Frankie Lee Sims の 2回、そしていっちゃん最初に採り上げたのに、例の Delmark All Star で再登場したこの Carey Bell の三人だけだったんでございます。
それがライコスから楽天に移行したときに気付いたんですが、Carey Bell「だけ」 Biography 部分が「無い」んですよ!
ありゃりゃ、なんにも考えずにまずやってみた初回だもんなあ。しかも二度目のときは前にやってた気がしてたんでやっぱりそのまま・・・うう、これではイカン。てなワケで、でもいちお〜 Lurrie Bell を巻き込んで目先を変えて、と。ま、Carey Bell はワタシのいっちゃん好きなハーピストなんで三回目でもいーんですがね。

のっけから Carey Bell のハープがサクレツいたしておりますねえ。およそ 20年前のアルバムではございますが、この時点では(つーか、それ以後の Lurrie Bell( Born: 1958 Chicago, IL. )の音は聴いてないのですが)少なくともワタクシの言う「ブルース度」において、2人の音に親子ほどの隔たりが・・・って親子だからとーぜんでしたねえ。
曲そのものは息子が作ったインスト・ナンバーのようですが、Carey Bell のスゴさと、Lurrie のギターの手数ばっかしで「イケてない」サマが対照的で、なんだかなあ。
つまり、二人のそれぞれの楽器に対する「思うがままに操れる」レヴェルってのが、少なくともこの時点ではものスゴ〜く「差があった」んですよ。
さすが Carey Bell はフレーズはもちろん、そのインテンシティ、トーン、ニュアンス、さらにはパースペクティヴまでも掌中のものとして「意のままに」と言うよりは「情のままに」ハープを泣かせているんですが、息子のほーはまだまだ一本調子で手持ちの「出来るコト」を精一杯繰り出してるだけですね。
あ、でもその後はドンドン進歩して「ちゃんと」ブルースになってってるかもしんないぞ、なんて思いたいトコなんですが、1990 年代にはヤク中になりかけて、なんちゅうハナシもチラホラある
みたいで、ちょっとシンパイ(この四年後にはエディ・テイラーの息子とともに来日しておりますが、そのときは「かなり」良かったです)・・・

さて、この Carey Bell、1936 年11月14日に Mississippi 州の Macon で生まれた、とされておりますが、一部の資料では Georgia 州の Macon としているものがあります。
実は Maconっていう地名はアラバマ、アラスカ、フロリダ、ジョージア、インディアナ、イリノイ、ケンタッキー、ミシガン、ミズーリ、ミシシッピー、モンタナ、ネヴァダ、ノース・キャロライナ、オハイオ、テネシー、テキサス、ヴァーモントの各州にあって(!)、おそらく、資料から引く際に、「つい」自分の中で印象の強い Macon のほーに引っ張られてしまったのではないでしょーか?てなワケで、ここは Mississippi 州ということでよろしいと思います。
で、彼は Louis Jordan のファンだったらしく、サックスが欲しくてたまらなかったよーですが、そこはホレ、経済的なセーヤクっちゅうもんがおますからして、彼のお祖父ちゃんは、替わりに(?)ハーモニカを買ってあげました。それが 8才の時で、彼はもっぱら独学でハープを覚えてったみたいです。
13才のときには同じ Mississippi州の Meridianに移り、そこでカントリー&ウェスタンのバンド(!)で初のギグを経験しています。
それは彼の「名付け親(あるいは教父?)」でピアニストでもあった Lovie Lee の尽力によるものだったようです。その Lovie Lee に説得され1956年の 9月12日にはともに Chicago へ。
そこでは昼は仕事、夜はサウスサイドやウェストサイドのクラブで演奏を聴き、休日には Maxwell Street で演奏してチップを稼いだりしていたようですが、Club Zanzibar(14th & Ashland )に Little Walter の演奏を観に行き、仲良くなったようです。Little Walter はこの若造にイロイロ教えるのが楽しかったみたいで、様々なワザを伝授してくれたのでした。
また Sonny Boy Williamson II のもとにも教えを乞いに行っていたようですが、彼にもっとも大きな影響を与えたのは Big Walter Horton だったでしょう。彼に言わせると、「 LittleWalter はホントにいろんなことを教えてくれたよ。でも Big Walter・・・ヤツはクレイジーだ!他のハープ・プレイヤーにゃ出来ないよなくっだらねえコトばっかしやってたなあ」だそうでございます。しかし、そんな Big Walter がやっぱりお気に入りだったのは確かでしょう。

さて、そやって確実にスキルをアップさせてった Carey Bell ですが、1950年代の終りころから1960年代の初頭にかけて、ちょうどギターがエレクトリック化される端境期を迎えたことにより、ハープの位置が微妙なものとなり、一時的にハープの「仕事」が減った(とはいえ、ビッグ・ネームにとってはそれほどでもなかったのでしょうが)もんで、彼は Hound Dog Taylor から(!)ベースを習い、すぐさま Honeyboy Edwards や Johnny Young、Eddie Taylor や Earl Hooker、さらには Big Walter のベーシストを務めています。この Big Walter のバックでベースを弾いている間に、殆どのハープのテクニックを実地で観て学んだのかもしれません。

その彼が本来のハープに戻って始めて吹き込みに参加したのは、1968年の Arhoolie への Earl Hooker(1929-1970 )のバックとしてでした。その後1970年まで、彼は Eddie Taylor とともにウェストサイドにあった Big Duke の Flamingo Club のハウス・バンドを率いています。そして1969年には Charlie Musselwhite の手引きで Bob Koester の Delmark Records と契約しました( Carey Bell's Blues Harp )。同年ジョン・リーとヨーロッパ・ツアー。
1970年からの 2年間はマディとツアー及びレコーディング( THE LONDON SESSIONSUNK IN FUNK )。そして Willie Dixon も彼の Chicago Blues All-Stars に招き、1974年のオーストラリア及びニュージーランド・ツアーに同行させています。その状態はほぼ1970年代を通じて続きますが、Carey Bell はその一方でウマく時間を作って1972年には Alligator に Big Walter と一緒に吹き込み(有名な BIG WALTER HORTON WITH CAREY BELL AL 4702です)、1973年には ABC Bluesway Records に吹き込み、それが1974年にリリースされた、これまた素晴らしい出来の Last Night BLS 6079となります。また1978年には Alligator のLiving Chicago Blues シリーズでグラミー賞候補ともなっています(ともにバックには「あの」Lovie Lee が参加)。
そして1980年代以降はもはや確立されたステイタスとして自己名義も参加セッションも含めて数々のレコーディング、さらにツアーをこなし、この 2003年の夏には、ついに青森くんだりまで Delmark All Stars の「実質上の」メイン・アクトとして来てくれたのでございますよん。

てなワケでワタクシのいっちゃん好きなハーピスト Carey Bell の Biography(つっても、例のごとく、有名になるまでをメインに、ですが)をよーやくアップいたしましたよん。



今朝は放射冷却のせいで、岩手県の盛岡市で 2.7度(!)まで下がったんだって!
こっちもかなり下がったけど、それよりは 5度も高いぞう!
でも日中はキレイに晴れてたせいで陽ざしが強く、20度近くまで上がりました。こんなふーに温度差があると野菜に甘味が乗る、なんて言ってたなあ。人間もそーなんでしょか?ねえ?
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