Keep Yourself Togather

Frank Frost and Sam Carr


03-10-08
もうだいぶ前のコトになるけど、CX で何回かブルースをめぐるドキュメントを流したことがあって、そのときの現地映像にこの Frank Frost が登場していました。
Frost と言えばあまりに有名な Things you do( 1967年 Jewel 771、カップリングは Harpin' On It、アルバムでは FRANK FROST( 1973年 Paula / Jewel LPS 5013、Thing you do や、ワタシの二番目に好きな Got My Mojo Working ─ 一番はとーぜん Gatemouth ねっ!─ も収録)なんですが、その番組中で観た彼の演奏は「さらに」ラフで、イージィで、そのグズグズっぷりが、いかにも日常的なテンションを感じさせて、ホントに地元の連中を相手に演奏してるときって、こんなんだあ、っちゅうミョーな感動をおぼえたモノでございます。
それからしばらくしてこの CD を見つけ、横に立ってる Sam Carr ってえオッサンが、あのとき Frank Frost のバックでドラム叩いてたヤツじゃないかなあ?って気がして買ってきたんですが、記憶力のいい方はご存知のとおり(と書いてから記憶力の良くないワタクシは、自分で書いた日記の中を急いで「検索」・・・あったあった!)「あの」 Robert Nighthawak の Sweet Black Angel( 7/22 )のとこで
1928年には Mary Griffen と「最初の」結婚をしてます。そこで生まれた二人の子供の上の方 Sam(下の子は Ludie )は後にドラマー Sam Carr として有名になるのでございますよ。
まだ4、5才の彼はナイトホークのギグにしょっちゅう連れていかれたそうで、ステージの前あたりでずっと踊ってたとか。そして '40年代に入ると、父のバンドで時に運転手として、時にはベーシストとして働いていたようです。

と紹介した、その Sam Carr なのでございますねえ。

このふたりの音ときたら、どっぷり「デルタ」のトロっとしたダルさが良かったんですが、このアルバムじゃあギターとアコースティック・ベースを白人が務めています。
そこだけミョーにタイトでデルタっぽくないんですが、ま、Frank Frost のヴォーカル&ハープが始まるとイッパツで Arkansas 州 Helenaのジューク・ジョイントにブっとんでくんで大目に見るといたしましょう。
ホントなら、もっとルースな低音弦主体のガッガガッガっちゅう「芸の無い」ブーギをゴリゴリに刻んで欲しいとこだけど、それは無いモノねだり、っちゅうもんでげしょ。

Frank Frost は1936年の 4月15日、Arkansas 州の Auvergne( alt. Augusta, Arkansas。Memphis の約 70マイル西)で生まれています。その家庭は音楽に縁があり、父は管楽器、母は鍵盤楽器を、ともにゴスペルの伴奏のために演奏していたようで、彼自身の最初の楽器も教会の合唱団に伴奏するピアノでした。
1951年、15才の時に彼は St. Louis に移り、そこでハープ・プレイヤーの Wiilie Foster のバンドにギタリストとして参加しました。そこに現れたのが Sam Carr* で、父のとこにいてはコキ使われるだけだ、と思ったのか(?) St. Louis に移ってきて、自分のバンドを作ろうとしたようですが、フロントマンを必要としていた Sam Carr が目をつけたのが Frank Frost だった、っちゅうワケ。「 Willie Foster にとっちゃ Frank Frost がそれほど必要、ってワケじゃなかった」のだそうで「だから彼を引き抜くのに後ろめたさは無かったねえ」とゆーイキサツで、この時から Frank Frost と Sam Carr の長〜いツキアイが始まります。

*Sam Carr は1926年 4月17日、Mississippi 州の Friar's Point で「あの」 Robert Nighthawk の息子として生まれています。彼は冒頭に引用したとおり、ごく小さいときから父のバンドを通じて音楽に関わり、やがてはそのバンドでベーシスト兼ドライヴァーとして働くようになるんですが、ワシゃ、こんな人生イヤじゃ!とゆーことで(?)独り立ちを目指し St. Louis に行ったのでしょか。出あったころの Frank Frost も Sam Carr もギターを弾いておったのですよ、これが。「 Frost よりは俺のほーがウマかった」だそうですが・・・ただし、この時期、Willie Foster のバンドではなく、父の Robert NightHawk のバンドで Frank Frost も一緒に演奏をしていた、としている資料もありますが、それは1960年代のハナシでしょ。

その Willie Foster のバンドにいた時には、ジミー・リード・スタイルのハープを学んだそうですが、最も多くのことを学んだのはやはり Sonny Boy Williamson からだったようで、基本的にはサニー・ボーイ・スタイルだ、と自分では言ってますね。
でも、人柄の違いが「音」に出るのか、Frank Frost のハープははるかにシンプルでストレートで「暖かい」ような気がするんですが・・・1956年から、割れたボトルのガラスで手に怪我をしてしまい、ギターを断念する1959年まで、サニー・ボーイのギターを務めたそうですが、サニー・ボーイは彼にハープを教えて、まるで自分の息子であるかのように扱ってくれたそうです。「彼についちゃイロイロ言う人もいるようだけど、俺にとっちゃ偉大な存在だ」

そして Frank Frost と Sam Carr のふたりは Mississippi 州に向かいます。1960年には Sam Phillips の International Records に初の吹き込みをしていますが、このときには契約関係にうとかったのか、「たった」 800ドルが支払われただけだったとか。
そして1962年にはギターに "Big" Jack Johnson**を迎えて吹き込み。

**"Big" Jack Johnson は1940年 Mississippi 州 Lambert で生まれています。
Sonny Boy Williamson、Jimmy Reed、Robert Nighthawk から Carl Perkins までのサポートを行い、1961年には Memphis の SUN Studioで初吹き込み( alt.1964年としている資料もあります)。彼は1970年代の晩期からは The Jelly Roll Kings のシンガー、ギタリスト&ベーシストとして活躍し、1980年代に入ってからはソロ・アルバムもリリース、2002年には日本にも来ています。
成功してからもデルタにとどまり、そこからツアーに出る生活を続けているみたい。

その "Big" Jack Johnson を加えたバンドは Frank Frost and the Nighthawks と呼ばれていたようで、そのメンツでは1962年にシングルとアルバム Hey Boss Man! を録音しているようです。バンド名は Little Sam Carr and The Blues Kings になったり、さらには Jelly Roll Kings で落ちついたみたいです(1978年に、Chicago に本社のある Earwig Records に吹き込み)。
1966年には Scotty Moore のプロデュースで Nashville で Jewel Records に Things you do を含む 3枚のシングルとアルバム一枚を吹き込み。Baby Scratch My Back はマイナー・ヒットになっています。また、この Frank Frost、Sam Carr、Jack Johnson で構成されるトリオは Robert Nighthawk がデルタに来たときにはバッキングをしていたらしく、他にも B.B.や Little Milton、Johnnie Taylor、Albert King に Jimmy Reed などのデルタでのバッキング・バンドを務めています。彼らはまたミシシッピー州内のジュークジョイントをめぐり歩いていますが、バンドとしての吹き込みは前述の通り1978年の Earwig への Jelly Roll Kings 名までしばしお休み。あ、でも、ここでは Frank Frost は Farfisa オルガン(?)を弾いてます。1990年の Midnight Prowler を最後に Jack Johnson はバンドを去り、Frank Frost と Sam Carr の二人は相変わらずミシシッピー・デルタを廻り歩き続けたのでした。
1990年代には Arkansas 州 Helena の Missouri Street 121番地の古いビルにある Eddie Mae's Cafe を本拠地として周辺でギグをしていたりしていたのですが、1992年に Robert Palmer のプロデュースで製作されたドキュメント、『Deep Blues』で採り上げられたことによって広くその存在を知られるようになりました。
また映画『Crossroad』の影響もあったのでしょう、Helena の彼のもとには若いハープ奏者が訪れて、どしたらそんなふうに吹けるのか?とか、ハープでイチバン大事なのはなんですか?などと尋きにくるそうですが、そんな時の彼の答えは、いつも決まってて、「そりゃ胃だべ。ここ(と胸をさす)から上で吹いちゃダメだあ」だそうです。先日の Joddy Williams がしばらくブルースから離れていて、再起を決意したとき、「(指は動かなくなっていたものの)ブルースはここ(アタマ)とここ(ハート)に残っていた」と言っていたのと真反対でオモシロいですねえ。「胸から上」じゃあアタマはもちろん、ハートも含まれてるワケですから。
また、お気に入りのハープのブランドやモデルはあるか?という質問も多いようですが、答えは「なんでもいい。」だそうです。ただ録音で多く使われているのは Marine Band の「 C 」。

Sam Carr は Frost より10才年上なのですが、アスリートのようなカラダつきのせいか、実際の年齢より 2、30才は若く見えるのに対し、晩年の Frost は車椅子での生活で、 1999年の10月12日、Helena で死亡しました。



さて、移転させる作業上の手違いで、これに続く 10/9 の内容が散逸してしまいました。
この wox では日付を遡って「割り込ませる」ことが不可能なため、ここに「再掲」いたします。

Unnamed Blues / Barbecue Bob

特に戦前の、それもカントリー・ブルースの人たちの名前って、肉体的ハンディキャップをそのまま冠してる場合が多いですよね?イチバン多いのが、Blind Lemon Jefferson に代表される「ブラインド」でしょう。
他にもペグ・レッグ・ハウエルとか、曲名ですが「スタッガー・リー」なんてのもありますね。おそらく、黒人たちの間では見た目の特徴を仲間うちで、例えば「あのハーモニカ吹いてるデブ→ハーモニカ・ファッツ」みたいに、チビ→ショーティ、デカい→ビッグ、小さい(時にはコドモっぽい、若い)→リトル、なんて言い合ってたものが、さらに一般化してそいつの愛称になり、そのまま商標登録(?つまりレコード化されたときに「その名」が使われちゃうワケ)されちまう、って図式でしょうか。

日本ではそのような呼称を無自覚に用いることが差別につながる、として、近年見直しがススんでいます。さて、ではアメリカじゃどーなんでしょ?Blind Lemon Jefferson のように、そのような意識の無かった時代に既に定着してしまったものについては「そのまま」行くしかないんでしょうかね?
ま、それはともかく、こんなコト考えたのも、戦前のブルースマンで、時々気になる名前に出合うからでして、以前に採り上げた Black Ace なんてのもそのクチです。で、今回、ワタクシの目が引っ掛かったのはこの、Barbecue Bob。
俺はウェスト・サイドの Barbecue Brothers さ。と言ってた Magic Sam のことがフと脳裏をよぎりますが、とーぜんカンケーはございません。

G オープンのボトルネックを使った 12 小節( 2 小節目は「上がる」ことが「多い」。10 小節目も D のまま「に聞こえる」)のブルースは、意外とキュートで、優しいテクスチュアの曲です。タイトルが判んないのは、この曲、Yazoo のこのオムニバスに収録されるまで、一度も世に出たコトが無かったため、とライナーにはありますが、そんなの理由になるんかい?っちゅうギモンが・・・ま、なんにしろ、記録が付随してなかったんじゃしかたないけど。
終り近く、これまたこの初期のブルースによく登場するヨーデル的な裏声でのシャウト・・・ってほどじゃないし、なんと表現していいか、迷うとこなんだけど、ま、ゴスペルにおけるコール&レスポンスの「コール」に近いか?ってのが出てきます。
この発声法は、戦後のブルース、それもバンド化されて以降の都市のブルースでは殆どみかけませんが、初期にあっては、それだけヒルビリー系の音楽などとのキョリが近かったのでしょうか。
ただ、その発声のルーツについてはアフリカ大陸西部や西インド諸島、さらには中南米にまで及ぶ精査が行われなければ、安易にそんな決め付けは出来ませんね。

Barbecue Bob、本名 Robert Hicks は 1902 年の 9 月11日に Georgia 州 Walton County の Walnut Grove で生まれました。そしてまだ幼い時期に小作農だった両親と Newton County に移っています。彼には二つ上の兄、Charlie*がおり、その兄を真似て彼もギターを習いはじめます。
しかし、両親ともに音楽には縁がなく、ケッキョク彼らは Savannah "Dip'' Weaver からギターのレッスンを受けることになったのですが、彼女こそ Curley Weaver**( James Weaver: 1906 -1962 )の母親でした。そこで教わるうちに年も近い Charlie、Robert、そして James の三人はすぐに仲良くなり、一緒に練習するようになったのは当然のことでしょう。彼らと親しかった、とされる Snap Hill によれば、この時期に Hicks 兄弟は 6 弦のギターから 12 弦に移ったのだそうです。

*Charley Hicks: 別名 'Laughing' Charlie、あるいは Charlie Lincoln は 1900 年 3 月11日生まれ。1923 年には Atlanta に移っています。
彼はそこで結婚して家庭を築き、仕事も鋳造関係からベーカリー、最後は塗装会社に職を得て着実に生活していたようです(しかし弟の Robert とは違って、さほど社交的ではなかった、とも言われており、なのに「 Laughing 」という名がついたのはそれなりの理由があるのですが、それはそのうちに)
一緒にギターを練習した James Weaver に弟の Robert、さらにそれに Eddie Mappe***を加えて、the Georgia Cotton Pickers の名で Atlanta 周辺で演奏活動をしています。1963 年 9 月28日死亡。

**James Weaver: Curley Weaver として有名。1906-1962。
別名は「 Georgia Guitar Wizard 」。1920 年代からレコーディングを始め、ジョージア・ブルースでは良く知られる名前となっています。
母の Savanah Shepard(後に結婚して Weaver となるのか、その辺は不明です)はゴスペル系のミュージシャンであったようですが、彼は(及び一緒にギターを習った Hicks 兄弟も)ブルースへの道を歩むこととなりました。Hicks 兄弟や次の Eddie Mappe***とも演奏活動を行っています。
彼は 1950 年代末に視力を失ったために活動を停止し、1962 年にこの世を去りました。

***Eddie Mappe 1911-1931。Georgia 州 Walton County の Social Circle の出身と思われるハープ奏者。彼が 1922 年に Newton 郡に移ってくる以前のことについては殆ど判っていません。James "Curley" Weaver とふたりでダンス・パーティなどで演奏したり、ときには Hicks 兄弟も一緒に演奏もしています。彼は Newton 郡では最高のハーモニカ奏者と言われていたようです。ところで、Hicks 兄弟の兄、Charlie が Lincoln 姓を名乗っている件について、この Eddie Mappe の母の旧姓だった、とする資料がありますが、だとしても、ナゼそれを名乗っているのか、は「?」ですね。
Eddie Mappe は Document に残った Barbecue Bob のバックで聴くことが出来ます( Georgia Blues 1928-1933 DOCD-5110 )。
1931 年の11月14日、彼は Houston と Butler(ともに「通り」の名前・・・のハズ)の角で死んでいるのが発見されました。死亡診断書では彼の左手首の動脈が切れていた、とされていますが、Piano Red は「ガール・フレンドに心臓を刺されたと聞いた」と言っているそうです。
いずれにしても Barbecue Bob の死からほぼ 2 ヶ月後の突然の「死」で、弟ばかりか、この Eddie Mappe をも失った Charlie Lincoln がショックから音楽を捨ててしまうのもムリはなかったんでしょうね。


1923 年に Atlanta に移った兄の Charlie を追って Robert も 1924 年には Atlanta に移り、職につくのですが、兄と違ってキラクなタチだったとみえて、あまり将来のコトなど考えず、稼いだカネはスグ使い切るような生活を送っていたようです。
上の注釈で挙げたメンメンとアトランタ周辺で演奏活動をするうち、1927 年には Columbia Records のスカウト・マン Dan Hornsby に見出され、5 月に Atlanta で録音したのですが、丁度その時に働いていた Tidwell's Barbecue を「売り」にしよう、ということでシェフの白衣を着せて Barbecue Bob の名前で出したところ、そこそこヒットし、その後、ニューヨークまで出向いて吹き込んだりもしています。
有名な作品としては Motherless Chile Blues など。
そして、ヒットを出したことによるヨロク(?)か、彼は兄の 'Laughing' Charlie Lincoln、Curley Weaver、Eddie Mappe の吹き込みを誘い、さらには、若いギタリスト Buddy Moss(1906 or 1914-1984 )が引き続き録音されることになる状況をリードした、と言えるでしょう。
しかし大恐慌がレコード業界を直撃し、状況は暗転します。彼の最後の録音は 1930 年12月のものとなりました。翌 1931 年の10月21日、Georgia 州 Lithonia でインフルエンザに起因すると思われる肺炎で死亡しました。29 才という若さでの死でしたが、その 2 ヶ月後には Eddie Mappe が、1 年後には彼の妻が、さらに 2 年後には母も死んで、これじゃ兄の Charlie もヤル気を無くすのも無理はないでしょね。
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