Whole Lotta Woman

Mojo Bufford


2003-10-12 SUN.

ホントに調子のいいナンバーです。このアルバムのライナーには "Mojo" Buford 以外の演奏者のデータは記載されてないけど、このギターはなかなかいいですねえ。ちょっとウルサいとこもありますけど、かなり好き放題に弾いてるんじゃないでしょか?
なにより、彼のゲンキいっぱいのヴォーカル(元気すぎる?)がいいんですよ。割りとシンプルにストレートな唄いっぷりなんですが、張るとこはちゃんと張って、途中で入るソロのハープも、「メチャうま」ってワケじゃないんだけど、ま、こんなイキオイで行っちゃう曲ならこれでいいかも?ってえトコでしょうね。
意外とガンバってるのがドラムで、随所で縦横に走りまわりますが、ともかく全体がウルチャい作り(?)なんで、さほど違和感はございません。
マディのバンドで 3 度にわたってハープを務めた George "Mojo" Buford( London GXF 2002、Blues Obscurities Volume 2. Lonesome Harmonica ではナゼか「 Bufford 」と「f」が二つになっておりますが、それ以外の資料は殆ど「 Buford」となっております。てなワケで今日のタイトルだけはアルバムの表記を尊重して f 二つにしときましたが、以後の本文中ではすべて f ひとつの Buford に統一いたします)は、1983 年のマディの死以後も活動を続けごく最近までアルバムをリリースしています。その彼のごく初期の吹き込み(1966~1968?)でございます。同アルバムには Messin' With The Kid も収録されておりますが、ユニークなのはダンゼンこっち。
とことん陽気で騒がしいこの曲、カノジョが出来て嬉しくてしょーがない、ってのは判るんですが、おいおい、そんな浮かれてていいのか?と、ついシンパイになるよなパッパラパーぶりが(ここまで来ると)かえってキモチいいのですよ。

"Mojo" Buford こと George Buford(別名 Little George Buford、あるいは Muddy Waters Jr. とも呼ばれていた)は 1929 年11月10日、Mississippi 州 Hernando( Tennessee 州 Memphis のおよそ 25 マイル=約 40km ほど南になります)で生まれました。
子供時代には、教会の合唱隊に参加していたそうですからそれが彼の歌の出発点でしょう。彼の父はハーモニカを演奏していたようですが、パフォーマンスを見せるほどの腕前ではなかったようです。
1944 年、彼は 14 才の時に Memphis に出ています(ただし、資料によっては Memphis に出たのを 1954 年としているものもあります)。そこではラジオやライヴなどを通してブルースに触れることが出来、次第に彼の意識はブルースのメッカ、Chicago に集中していったもののようです。

その Chicago に出て来たのが 1952 年としているもの、1954 年としている資料も混在しますが(一応 1952 年は少数派です)、どちらにしても、1956 年には彼がマディと同じ通りに住んでいたことは確かなようです。彼自身はマディと「お近付きになりたいわあ」と思っていたようですが、押し掛けて行くのもナンだし、と悩んでたようですが、そこで Otis Spann に相談してみたら、「任しとけ!」ってなもんで間をとりもってくれたようで、スグ対面が実現したのでございます。メデタシメデタシ。
Chicago ではさっそく自分のバンドを作っています。ドラムの Sam Burden とギターの Dave Members で結成された The Savage Boys はマディと知りあったことにより運命が変わりました。マディがシカゴ以外の土地でのギグには彼らをバッキング・バンドとして連れていくことにしたからなのですねえ。そのほーが自分の「手取り」が増えるのはカクジツですからねえ。
当然バンド名も変わり、「 the Muddy Waters Jr. Band 」となり、これが彼の別名、Muddy Waters Jr. の由来かもしれません。そして1960 年( alt. 1962 )にはジョージ・スミスに代わってマディのバンドのハーピストとなり、2 年半ほど一緒に演奏しています(これが最初の加入時期)。また 1963 年には初吹き込み( The Exciting Harmonica Sound Of Mojo Buford Blues Record Society 1964 )。
1962 年に Minnesota 州の Twin Cities を訪れた時のこと、St. Paul barbecue bar ってえとこでギグをしていて Got My Mojo Workin' を演奏したところ、バカうけして、「もう一回!もう一回!」コールが鳴りやまず、本人はそーとーウンザリしてたようですが、乞われるままに何度も演奏してるうちに「 Mojo 」の名が冠されるようになってしまったんだそうです。「おい、今晩また Mojo の Buford だぜっ!」てな会話が「アタリマエ」になって「モジョのビュフォード」が定着したんでしょねえ。そして Minneapolis に居を構えることに。
さて、こんどは 1967 年に、当時マディのバンドのハーピストだった James Cotton が抜けた後をまたもや "Mojo" Buford が埋めることになります。そして、この前後に今日の Whole Lotta Woman も Minneapolis で George Garrett の Bangar Records に録音されてることになるんですが、レコーディング・データが 1966/68 とアイマイなためその前なのか後なのかはちと判りません(でも、資料によってはジョージ・スミスの代わりになったのは 1967 年のほーだ、ってえ資料もあります。マディのバンドはハーピストの変化がハゲしい上に、ワタクシ自身マディのバンドにま~ったくキョーミが無いためどれが正しいのやら判りません。知ってるかたはそこら教えてねん)。この時期にはマディとともに国内はもとより、カナダ、ヨーロッパにまでツアーに行っています。
その後また Minneapolis に帰った彼は Sonny Rodgers、S.P. Leary、Lazy Bill Lucas、Pat Hare に Pee Wee Madison といったミュージシャンと仕事をするようになりました。
その後またもやマディのバンドのハーピストとなるのですが、それは 1983 年のマディの死まで続くこととなります。

彼はトレード・マークともいうべき、いろんなキーのハープをたっぷり差したショルダー・タイプのガン・ベルトを 2001 年の早春に「盗まれ」てしまったんだそうです。ようやく、同じようなものを作れそうな皮革の工芸作家(女性らしいですが)を見つけたそうですから、もうとっくに新しいガン・ベルトも完成してるかも・・・ってトコまで書いて、背筋にブルっと、うう、フキツな予感!そうだ!江戸川スリムさんとこのジョージ・スミスだ!ってんでスっとんで行ってみたら、ありましたよ!
『 ’66 年の中頃、ジョージはジェイムス・コットンが抜けた穴埋めとして、再びマディ・バンドに請われてシカゴへと向かった。』・・・およよ、つーことは 1967 年のとこは『当時マディのバンドのハーピストだった James Cotton が抜けた後をまたもや "Mojo" Buford が埋めることになります』じゃなく、『当時マディのバンドのハーピストだった James Cotton が抜けた穴を埋めたジョージ・スミスも LA に帰った後をまたもや "Mojo" Buford が埋めることになります』、が正しいのかな?ううう、よー判らん!

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