Mojo In Her Backbone

Eddie Kirkland

2003-10-15 WED.

ザワつく場内を制するように響くアナウンスメントに導かれてドえらく派手なオープニング!
ああ、どっかでこんな光景を・・・ と思ったら、そう!Magic Sam の 1969 Ann Arbor Blues Festival での San-Ho-Zay だあ。もっともこっちはインストじゃなく、歌入りですが。
しかしそれにしても、このギターの音はいわゆる70年代ロック、なんてサンプルとしてマルチ・エフェクターに入っていそうなエグい音じゃのう。
さらに、このドラムがまた、ポスト・ファンクのやたら切れのいいハイハット・ワークに「ドシドシッ」とダンプの効いたバス・ドラが独特のビートを底支えして、その上でシンコペートするスネアが走って、そこらはかなりモダーンな仕上がりになっています。
ベースはこれまたワタシ好みのダンピングを効かせた音で(でも、ベーシストはこの音を嫌うみたいですね。もっとボワンボワンの締まりの無い音や、ハンブン歪みかけてるよなガリゴリブリバリがお好きなよーで・・・ ま、自分がギターなもんで、逆に帯域的にも高調波の少ないロー・エンドをメインにしてサステインもジャマだからそんな音が好きなのかもしれないんですが)特別スゴいことはしてませんが、フロントがどんなに騒いでもボトムをしっかり支えています。

さて、カンジンの Eddie Kirkland のギターは(後で述べますが)ちょとアタマに来かけてたせいか、バンド全体のチューニングが甘く、サイド・ギターとベース、それに彼のギターがどれもビミヨーに合ってなくて「やや」キモチ悪いんですが、それを差し引いても、爆発的な燃焼を見せています。そりゃ、ちょっと意欲が先走りしてる面もあるし、「熱く」なり過ぎてるみたいなとこもあるけど、たった 2曲しか出来ない、っちゅーせっぱつまったハジケっぷりが独特のハクリョクを生み出してるような気がしますね。

モチロン冷静にみれば、演奏としての完成度は「低い」と言えないこともないのですが、ワタシとしちゃあ、彼のインタビューで、この Ann Arbor Blues & Jazz Festival での彼のステージが、たった 8分しかなくなったイキサツとかを読んで「ホントにバカなディレクターばっかだから、そんなことになるんだ!」とひときわキョーカンしてただけに、そこで燃え尽きようとしてる彼の意欲がヒシヒシと感じられて、これを「ヒドい演奏」、と切り捨てるキモチにはなれないのです。( PCD-4782/3 )

Eddie Kirkland は 1928年( alt. 1923 ) 8月16日に西インド諸島のジャマイカのキングストン(綿花のプランテーションで生まれた、という資料もありますが、Kingston でもプランテーションはあったかもしれませんね)で生まれています。もちろん、後には Reggae のメッカとなった場所ですが、このころにはまだその萌芽もまだ見られなかったのではないでしょうか。
しかし、生まれてすぐに母に連れられてアメリカ本土に移住しました。Alabama 州の Dothan の街角で、わずか 8才でチップを稼いでいた、とされています。(インタビューでは 4才で、もうかなりハープを吹いていたとか)
12才の時には Sugar Girl's Medicine Show というショーの一員として参加したのが音楽ビジネスへの最初の関与だったようです。
そのショウの後に Indiana 州に移り、さらに New Orleans にも移動しています。
ただしそれは音楽ではなく、ボクサーとしての仕事のためだったらしい・・・
New Orleans では時々 the Louisiana Six と演奏をしていたようです(この Louisiana Six については、いまのところ、Louisiana のダンス・ホールの資料に専属バンドの名前として Bill Landry の Band と並んで登場しているのしか発見されておらず、その時代考証も不明なため、ハッキリしたことは言えません)。
そして 15才で Detroit の Ford Motor Company に就職しました。そして一方では地元の小さなクラブで演奏したり、ハウス・パーティなどで演奏していたようですが、やがてジョン・リーと出会い(一部の資料では)1953年からは一緒に仕事をするようになりました。その関係はおよそ 7年間続いたようです。
一方、彼自身の最初のレコーディングは1952年とされています。その後ほぼ10年にわたって RPM(1952)、King(1953)、Cobra(?)、Fortune(1959)、Lupine(?)などのレーベルに吹き込み。1961年には、ちょっと横道に逸れて King Curtis と Oliver Nelson とともに Prestige の子会社 Tru-Sounds Records に、初のアルバム It's the Blues Man( TRU 15010 )を New Jersey 州の Englewood Cliffs で12月 8日に吹き込んでいます。これは、それまでのダウン・ホーム・ブルースとはちょっと違う路線と言えるでしょう。(ただし、Tru-Sounds Records の Discography ではそのアルバム・タイトルを That's The Blues Man としているのに対し、実際に市場に出まわっているアルバムでは It's 〜 となっています。)
翌1962年には、デトロイトから Georgia 州 Macon に移って「ソウル・ミュージック」に接近します。まず Otis Redding と接触し、1965年には Volt を通じて契約、以後 Otis Redding のツアー・バンドの一員としての活動に入りました。ただし、その契約年次については1962年とする資料もあり、Volt から1963年にリリースされている、とする資料もありますが、その作品を確認していないのでワタシには判りません。
1970年代には Pete Lowery の Trix label にレコーディング、全米を巡るツアーも行っています。その中で1973年に Ann Arbor に出演した時の録音が今日のブルースでございます。
この時にはジョン・リーがメインで、他に Ray Charles も出ていたため、彼はどんどんワリを喰って(つまり時間調整に使われちゃったんですね)、その演奏時間はたった「8分」が割り当てられただけだったのです。なんだかヤケクソっぽいトビようも、判るよな気がしませんか?
もちろん彼はこの後もブルースの演奏を続けています。そちらは amazon などで検索してみてくださいませ。「ブルースのカメレオン」とか「ジプシー」とかも言われていますが、なかなかどうして味のある存在ですよ。どなたにも向く、ってえブルースマンじゃなさそうですが・・・
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