Going To New York

Jimmy Reed


2003-10-23 THU.

あくまでもシンプルでストレートなブーギをお楽しみいただきましょう。
これと、例のダルダルの When Girls Do It と、どっちにしよか迷ったんですが、そっちじゃあまりにコア過ぎるかな?ってんで、こちらの曲の登場でございます。
Eddie Taylor の愚直なまでに切り続けるステディなブーギのリズムが、なんだかそれ自体、ひとつの生命体で、その鼓動であるかのような印象すら受けますねえ。ドラムもそれに合わしてこ、みたいな。

そしてなにより、この Jimmy Reed のヴォーカルの「ゼイ肉」の無さがスバラシい!「どうだ、オレって歌うまいだろ?光線(?)」がゼンゼン出てないんですよ。そして「プリミティヴとさえ言ってもいい」飾りっ気の無いハープ!
巧さやワザで聴かせよう、なんてえのからはほど遠いとこにいますね。そして、それを黙々と支える Eddie Taylor のギターがまたいいです。いいコンビだな。

James "Jimmy" Mathis Reed は 1925 年の 9 月 6 日に Mississippi 州 Dunleith 近郊にある Johnny Collier という白人農園主のとこの小作農だった Joseph Reed とその妻 Virginia Reed の間に生まれました。彼が生まれた順番まではちと不明ですが、ともかく子供が10人いた中のひとりだったそうです。そして、彼の人生の最初の 7 年間をここで過ごしているようです。
そして、「いつからか?」はハッキリしませんが、ともかく学校に通うようになり、1939 年、彼が14才の時に学校をヤメて Duncan や Meltonia の周辺で職を探し始めました。
この Mississippi にいた時期に Eddie Taylor と出会い、ギターを習っていたようですが、なんでか正確な年を記した資料に出合っておりません。

そして 1943 年( alt.1944 )Chicago へ。しかしこの時はすぐ(それが 1944 年らしいのですが) U.S.Navy に入って第二次世界大戦に参加することとなります。
(ついでながら、アメリカには 5 軍があります。陸軍である U.S.Army、海軍の U.S.Navy、そして空軍が U.S.Air Force、とここまでは大抵の方が知ってると思うんですが、じゃ、残り二つは?ってえと、海兵隊 U.S.Marine と戦略空軍 S.A.C.─Strategic Air Command ─これは B52 に巡航ミサイルを搭載して日夜ワールド・ワイドでカヴァーし続けるってヤツで、「博士の異常な愛情─あるいはいかにして心配することをやめ、原爆を愛するようになったか」で当時のソヴィエト国内の ICBM 発射基地めがけて殺到した B52 群がここんちのです。ま、あまりブルースとはカンケー無いんですがね)
海軍から 1945 年に戻ってきた Jimmy Reed は短期間ながら Mississippi に来て、そこで後には彼の曲を作るようにもなった Mary Lee "Mama" Davis と結婚しています。そして Illinois 州 Chicago に近い Indiana 州 Gary に移りました。
製鉄所で昼働き、Willie Joe Duncan という one-string guitar のプレイヤーと遊んでたりしてたようですが、1953 年に、とあるクラブに出演している Eddie Taylor を「発見」して再会!この年、Jimmy Reed は CHESS の選考を落ちているのですが、一説では、このときまだドラマーだった Albert King が VeeJay を紹介してくれた、ってゆーんですが。
そのヘンのいきさつはともかく、彼はめでたく VeeJay Recording Artist とはなったんですが、最初はあまりパっとせず、VeeJay ではリストからハズそうか?なんて動きもあったらしいです。だがしか~し!1955 年に You Don't Have To Go がヒットするや、事態は急変、モチロン契約は続行で、以後、次々と Ain't That Lovin' You Baby、You Got Me Dizzy、Honest I Do、Baby What Do You Want Me to Do、Big Boss Man、Bright Lights, Big City なんてえヒットを生み出して行きます。
とーぜん、それらを支えたのは Eddie Taylor でございました。また彼の妻(後には離婚しちゃうんですが)も曲を作り、時にはスタジオで歌詞をスグ忘れちゃう彼の耳元で「次の」歌詞をこっそり教えたりして支えています(いくつかのトラックで、その声が聞こえます)。

このように、黒人&白人の両方のマーケットで VeeJay にとってもめざましいヒットを連発したことで、彼の存在は重要になったのは確かです。しかし、VeeJay での晩期には、夢よもういちど、とばかりに「悪あがき」に近いこともしていますよ。
バッキング・トラックに 12 弦ギターをオーヴァー・ダブ(ダヴは鳩だよん)してみたり、「なんちゃってライヴ」にしてみたり、曲間に M.C,を入れてみたり・・・どれもハズしちゃったみたいですがね。こんなことしてちゃダメなのはアタリマエ。

1960 年代の初期にはヨーロッパにもツアーに行っています。しかし、てんかんの持病があったところに、飲酒癖がかさなり、健康にもモンダイがあったようで、一部の資料では、1976 年 8 月29日、California 州 Oakland で睡眠中に重い発作を起こし、呼吸困難に陥って死亡した、とされています。

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