Man Of My Own

Ruth Willis


2003-10-28 TUE.

この Yazoo L-1026(アナログ・ディスク)に収録されてる中ではちょっと異色のナンバーです。
ヴォーカルは女性で、やや舞台馴れ(?)した「ショー臭さ」のある歌い方で、このアルバムのラストの Irene Scruggs 同様、他からはちょっと浮いてはいるのですが、ま、このアルバムではこの曲、彼女の名前で載っているので表題もそうしてありますが、主役はこの曲でバッキングを務めてる、Spanish Tuning の A オープンに 2 フレットカポタストでスライドを弾く Fred McMullen と、もうひとり、この日記でも度々登場している( 10月10日の「 Unnamed Blues / Barbecue Bob 」、同じく10月16日の「 Doodle Hole Blues / Charlie Lincoln 」で登場) Curley Weaver(こちらはレギュラー・チューニング&おそらくフラット・ピック使用)です。
Yazoo のライナーでは Curley Weaver のギターはキーが「 C 」となっていますが、実際にはこれ「 B 」ですから、半音下げチューニングをしていたようです。でないとベース・ランがスムースに行きませんからね。
また、ライナーによれば、Fred McMullen のスライドも、その音から判断すると、たぶんヒザに置く弾き方ではなく、おそらく通常のポジションではないか?とのことでございます。

まず Curley Weaver ですが、本名は James Weaver です。
1906 年に Georgia 州の Newton County で、Jim & Savannah Weaver 夫妻のもとに生まれました。
以前 Barbecue Bob(弟: Robert Hicks )や Charlie Lincoln(兄: Charlie Hicks )のとこでも書いたとおり、母の Savanah は Hicks 兄弟と息子の James にギターを教え、それ以来この三人は結びつきを強めていくことになります。
10才ですでに彼はギターを演奏し、場合によっては自分より年上の Hicks 兄弟(兄は 6 つ、弟でも 4 つ上)とも共演するようになっています。
ただ、James は世俗の音楽しか残していませんが、母は教会での音楽だけを演奏していました。
どうやら彼がギターを習っていたのは母からだけ、というワケじゃなく、周辺のミュージシャンたちからも多くを学んでいたようです。それは例えば Judd Smith や Nehemiah Smith(どっちも資料がみつかりません。でも、Curley Weaver の長年の友人という Roy Dunn ってえひとによれば彼がイチバン影響を受けたのは Nehemiah Smith だそうです)だったり、Blind Buddy Keith(詳細不明。1943年の Folk Festival に名前が出て来てますが、それがこのひとかどうかは「?」です。)、Charlie Jackson( Papa Charlie Jackson。1924 年に始まった Paramount のレコーディングに始めて登場したブルースマンとして知られています)、そして Harry Johnson(詳細不明)などでした。

以前 Charlie Lincoln のとこでも触れましたが、Curley Weaver は仲間にも人望があり、多くのミュージシャンにも慕われていたようですが、やはり Hicks 兄弟や Harmonica wizard と呼ばれた Eddie Mapp( alt. Mappe。ところで、Curley Weaver はそれに呼応するかのような「 Georgia Guitar Wizard 」の異名を持っています)との結びつきがとりわけ固かったようです。
1925 年には Eddie Mapp とともに Atlanta に移り、先行していた Hicks 兄弟とまた一緒になっています。それ以後、彼はこの街のブルース・シーンを語る際に欠かすことのできない存在となっていきました。
1928 年の10月には、先に Columbia Records から Barbecue Bob として「売り出され」看板ともなっていた Robert Hicks のおかげで彼もレコーディングをすることが出来ました。
この時レコーディングされたのが、母の Savanah の作った No No Blues ですが、これは Barbecue Bob が既に吹き込んでいた Yo Yo Blues のリメイクでもあります。
後には Eddie Mapp や Guy Lumpkin とともに New York にまで出向いて QRS レーベルに再度 No No Blues を録音。
1930 年には Columbia record に Barbecue Bob と Buddy Moss と一緒に The Georgia Cotton Pickers として録音をしています。
さらに、この Ruth Willis や Lillie Mae などのバッキング、また Blind Willie McTell や Buddy Moss との演奏も行っているのですが、子供のころからの友人であった Barbecue Bob が死んで Charlie Lincoln も活動しなくなり、さらに Eddie Mapp も殺害されるにいたって、彼の環境は大きく変わってしまいました。
1933 年には、ふたたび New York に録音に訪れています。この時は Ruth Willis、Buddy Moss、そしてこの Man Of My Own でも共演しているスライド・ギターの Fred McMullen と一緒でした。
そして American Record Company でソロとしての活動をスタートさせているのですが、ここで最初に吹き込んだのもまた No No Blues だったのです。
その後 Curley Weaver は Buddy Moss と Blind Willie McTell とも吹き込んでいます。
一方、この Man Of My Own を歌っている Ruth Willis もまた Blind Willie McTell と共演しており、その時の録音はBlind Willie McTell: Complete Recorded Works, Vol.2 ( 1931-1933 )に 4 曲収録されています。また、このアルバムには Curley Weaver の参加した You Was Born To Die も含まれておりますねえ。

1935 年には Decca レコーディングに向かう Blind Willie McTell に随行してシカゴに行き、戦前では最後のレコーディングを行っています。
Atlanta を中心に Buddy Moss とともに演奏を続けていたようですが、1949 年に Regal が Atlanta にカントリー・ブルースを収録に来た際に McTell とともに吹き込みました。
また Weaver は Sittin' In With にも録音をしていますがこの Regal と Sittin' In With に行われた録音はまだリイシューされてないんじゃなかったっけ?おそらくこの時が彼のラスト・レコーディングだったようです。
1950 年代の後半にはあまり活動もしなくなっていたようですが、1959 年には、前からあまり良くなかった眼の状態が悪化してついに失明にいたりました。これによって完全に演奏を断念した彼は Atlanta から Almon に移り、そこで1962 年 9 月の死まで、短い余生をそこで送ったのです。
決して儀礼的な意味ではなく、死後も彼のことを悪く言う人間は居なかった、といいます。
誰もが彼の音楽と人格を「喜びをもって」回想した、と。

さて、モンダイは Fred McMullen でんがな。
生年月日・出生地ともに資料がございません。いえいえ、生い立ちだって判りません。判ってるのはギターが Stella のラージ・ボディを使ってるってこと。Blacks, Whites and Blues( CBS 52796 )で伴奏してる仕事が聴けるってこと。
てなワケで、なんの足しにもならんけど、ま、その分、この曲でのスライドを堪能してくださいませ。音はそのひとを語りますからねえ。

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