Strange Steps

The Days of
Screamin'
Jay
Hawkins



2003-11-06 THU.
昨日の「お約束」どおり、Screamin' Jay Hawkins のコトについて「おっぱじめる」といたしましょか?
年表みたいなカタチでございますが、なんせ Screamin' Jay Hawkins ですからねえ。インタビューで語ったコトバだって、どこまでホントなもんだか、おおいに疑問なのでございます。ま、時々眉にツバつけながらお楽しみくださいませ。

では、その第 1 回はじまりはじまり・・・

1929.7.18 Jalacy J. Hawkins、後の Screamin' Jay Hawkins、Ohio 州 Cleveland で数人(諸説あり。S.J.H.自身は 7 人と主張している)の子供たちのうちの一人として生まれています。ただ、彼によれば、母は一人だが、父の方は「何人もいた」だそうです。母の相手は様々で(!)、ある子供は中国人の血が入り、またある子はまるで白人だった、と。さらに、どこまでホントか、つーよりヤツのコトだからかなり眉ツバだとは思うんですが、自分の父はアラビアから来た人間だ、と主張しております。
母はなにやら遺産を相続したらしくカネには困っていなかったようですが、Washington D.C. には Hawkins 一族がかなりいて、みな一様にヒトには言えないよな「ワルいコトして」稼いでたらしいのですが、彼はそれがどんなコトなのかは「まったく知らない」のだそうですよ(って、こんな風に太字にすると、いかにも「またまたあ、しらばっくれやがってえ」っちゅー感じになっていいでしょ?)。
その母が Washington D.C. にいて Screamin' Jay Hawkins を身ごもっていた時に、ワケあって鞭打たれ、足蹴にされ、石もて追われるようにして Cleveland 行きのバスに蹴り込まれ、 Washington D.C. から追放されたのだ、と。う〜ん、ドラマチックですねえ。
でも、このあたりの母の受難の話って、マグダラのマリアからパクってねえか?

で、そのバスが Cleveland に滑り込むと同時に母は産気づき、彼を産み落としたんだとか。
んまあ〜、ドラマチックやわあ。ホントだったらスゴいわねん。
いっちゃん近い福祉事務所に担ぎ込まれての出産だったらしいのですが、そこで母はブラックフット族の裕福なインディアンに話をつけ、彼が 1 歳半になるまで育ててくれるよーに頼んだのだそーでございます。
彼は生きて行く術を、食べ物も毛布も無い森の中で学んだんだって。どの植物が喰えるのか、また治療に使える薬草の見分け方、自分で直す治療法など、それを教えてくれたブラックフット・インディアンの養母は Screamin' Jay Hawkins に言わせると、アフリカで言えば「 Witch Doctor 」、New Orleans で言えば(?)「 Voodoo Priestess 」なんだそーでございます。

1933 年にはピアノへの興味を見せ始め、やがて譜面を読んだり、作曲なども学び始めた。なんて言われてますが、それってヤツがまだ 4 歳じゃん!ホントかあ?
まだ少年のうちから Cleveland のナイト・スポットでピアノを弾いてチップを稼ぐよーになったそうですが、彼はスピリチュアルズ・シンガーの Paul Robeson や 20 世紀初頭に活躍したイタリアのオペラ歌手 Enrico Caruso を崇拝してて、そのせいか後に the Ohio Conservatoire of Music(オハイオ音楽学校)でピアノと「声楽」を学んでおります。
この時期に彼の興味を惹いた音楽ってのを自分で挙げてて、それはミュージカル『Showboat』からの「Ol Man River」、同じくポーギィとベスから「Summertime」、そして前述の Paul Robeson の「My Mothers Eyes」、Louis Jordan の「Caldonia」、Faye Adams の「Shake A Hand」、Erskine Hawkins の「After Hours」、 Sonny Thompson の「Long Gone」・・・などなどだそうでございます。
さらにアーティスト名で言うと Tiny Bradshaw、 Arnette Cobb、 Amos Milburn、 Gene Ammons、 Sonny Stift、 Charlie Parker、 Coleman Hawkins、 Shirley and Lee、 Nat King Cole、 Charles Brown、 Fats Domino、そして深く関わることになる Tiny Grimes(後述)。
彼自身の言によれば、ステージでは、ある時はピアノ、またある時はサックスを演奏し、さらにそれらと歌もやったし、全部やったこともあった。ですと。信ずるモノはすくわれる・・・アシモトを?

しかし、1976 年に彼が Norbert Hess(『Screamin' the Blues』のマスターリング&オーヴァー・ダブのエンジニアでもある Screamin' Jay Hawkins 研究者?)に語ったところによれば、Screamin' Jay Hawkins 自身の夢はやはり(?)オペラだったようです。その言い草がまた「でもショーバイとしちゃあどーだかな?だってオペラじゃチャート・インしないし」だって。
1943 年にはボクシングを始めています。彼が14才の時です。
1944 年、Screamin' Jay Hawkins は学校をドロップ・アウトし、陸軍に入隊しています。当時はまだ大戦中で、軍も志願兵の年齢が15才からとなっていたのに、ガタイが大きくておとなびた彼をまだ14才であっても受け入れていたんでしょか?軍隊ではサックスを始めてます(ってナニしに行ったんだか?)。
その後の数年に関しては多少異説もありますが、一応、慰安関係の特殊任務(なんじゃそりゃ?)でドイツ、英国、日本、朝鮮をまわってたらしいのですが、彼自身は太平洋で戦闘に参加していたと主張してるようでございます。
New York Times の Karen Schoemer に語ったところによると、「サイパンで捕虜になったんだよ。ワシらが降下したとこがなんと敵どものド真ん中だったのさ。パラシュートのストラップを外すヒマもなく捕まっちまった。一発も撃ってねえのにさ。そのまま18ヶ月も救助されるのを待ったよ」
1947 年、3 年間の陸軍勤務のあと、彼は今度は空軍に移っています。そのヘンは詳しくないのでよく判らないのですが、アメリカじゃあ、本人の希望があればそゆ移籍(?)がカンタンに出来るんでしょか?慰安部隊だから?ま、戦時中なら軍も「それどころじゃない」からムリなんでしょが、戦争にも勝利して気が大きくなってたのかも?
この年、ボクシングの the Cleveland Golden Glove アマチュア大会で勝利しております。
1949 年、こんどはまたなんでか Alaska 州のミドル級チャンピオンを賭けて Billy McCan と対戦し「勝利」
1950 年、これも彼自身が語ったところによると、この年、West Virgini 州の Charleston に近い Nitro と呼ばれるところに行った際に、そこのバーで、そりゃもう太りに太った、並みの象ならそいつと並んだら鉛筆みたいに細く見えるよな超デブったオンナがいて、スコッチの Black & White とバーボンの Jack Daniels で「ごキゲン」だったらしいんですが、なんでか彼を見たとたん、「 Scream, Baby, Scream! 」とワメイたんだって。本人曰く、「それを聞いた時、思ったんだよ。ちょうど芸名を考えてたとこじゃん?って。コイツはイケる!ってね。これがワシの名前の由来じゃよ」・・・いえいえ、本人がそー言ってるんであって事実かどうかは判りません(ってフツーなら本人の証言が最重要視されるんでしょが、こと Screamin' Jay Hawkins に関しちゃあ、そんな「甘い(?)」態度では真相に辿り付けるかどうかアヤしい、と思わせるあたりが彼の「人徳」でございますね)。
1951 年になると Screamin' Jay Hawkins は Tiny Grimes(一応ジャズ・ギタリストに分類されてますが、一部では RocknRoll の始祖、と言う意見もあります。Atlantic & Gotham Recording Artist。本名 Lloyd Grimes は 1917 年の 7 月 7 日、Virginia の東岸、Chesapeake 湾が大西洋に広がる、James 川の河口の北側にある街 Newport News で生まれました。最初はドラムとピアノをやっていましたが後にギターに転向しています。1937 年から New York に出て Slam Stewart や Slim Gaillard と一緒に仕事をするようになっています。特に Slam Stewart とは、共に Art Tatum のバックに参加した仲。1940 年代中頃からはいくつかのバンドを率いて、それには Charlie Parker などのアーティストも参加していたようです。1950 年代に入ってすぐ、この Screamin' Jay Hawkins も参加していた Tiny Grimes Rockin Highlanders を結成しています。1980 年代までは活動を続けていましたが、1989 年の 3 月 4 日に New York で死亡しています)のバンドで、ミュージシャン兼バンド・リーダー Tiny Grimes の専属運転手として仕事を得ました。ここでの彼のパートはヴォーカルとサックス、そしてキーボードです。彼が言うには「ワシは Tiny の運転手で、ボデイ・ガードで、犬の散歩係で、ピアノ奏者で、ブルース・シンガーだった。こんだけやって週に 30 ドルだぞ!スコットランドのキルトをはいて、胸にはおっぱいのかわり(?)に小さなミルク缶をふたつぶら下げてMama He Treats Your Daughter Mean を歌ってる間そいつはハネまわってるってワケさ。Ruth Brown が見に来てて、あたしが歌うよりいいじゃない!って言ってたよ」・・・ま、これもご本人の「おコトバ」ですからどこまでホントかは「?」なのでございます。ただし、Tiny Grimes ご自身は、どうやらこの若いヴォーカリストが出てきちゃうと客の目がみんなそっちに行っちゃうのに気付きはじめていたのですが。
(他にも『The Story of Soul Music (1984)』などの著作もある) Gerry Hirshey の『Nowhere to Run 』では、Screamin' Jay Hawkins について、彼自身はそれほどジャズも Tiny のクルマ(その中で眠った夜も幾度か?)だって好きってワケじゃなく、ホントにやりたかったのは「新しい Post-War ブルース」だったようだ、と述べています。

と、今日はここまで。

ねっ、どこまでホントだか判んないよな話ばっかでしょ?ま、逆にそれでこそ Screamin' Jay Hawkins!っちゅー期待どおり、と言えないことも無いんですが。
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