He's a Jelly Roll Baker Lonnie Johnson 2003-11-27 THU. | ただ、これまで、このひと採り上げるの、ちょっとためらいがあったんですよね。なんでか、っつーと、ジャズ畑でも顔を出してるせいもあってか、いろんなサイトで登場してるんですが、ブルー「ズ」の出現率が高くてハラ立つんですわ。 もしかすっと、あ、Lonnie Johnson だ!って検索で来るひとがいるかもしんないんで宣言しときます。 ブルー「ズ」じゃない!ブルー「ス」だ! ま、あなたご自身のサイトでは好きなよーにやってください。でもここじゃあ、「 Blues 」は「ブルース」なのじゃ!文句あるなら帰れっ! そゆヒトが来ないように、Lonnie Johnson をカタカナ表記にしとらんのですわ。 なんでか、みなさんカタカナで書いてるでしょ?それじゃ Google で検索できないっつうの。いえいえ、向こうから来る、ってイミじゃなくて、ページの中で気になる人名とかあっても、カタカナじゃあスペル判んないからそれでスグ検索できないんですよ。 だからここではなるべく本来のスペルで表記することにしています。 それに、国内の某サイトで、「うちの内容を勝手にパクらんでくれ」ってのタマにありますでしょ?失礼ですが、そゆとこに書いてある紹介程度は「どこ見ても書いてある」んですがねえ。 そこもカタカナなんで、ここで本来のスペルで書いてあったら、そっからパクったんじゃない、ってのもショーメイできる(?)し、そこじゃ書いてないこと必ず入れちゃろ、とファイト湧きます。 Lonnie Johnson の生涯については(特にその成長過程など)けっこう知られていない部分があり、例えばその生年についても、1889年、1894年、1899年、さらには 1900年という諸説があり(ただし誕生日については 2 月 8 日、ということで統一がとれているようですが)、さらに出生地も一応 New Orleans とされてはいますが、もっと Memphis に近いところだ、とする意見もあり、いまだに一部では議論が続いています。 そのことからも判る通り、彼の幼少期を知る証人は失われて久しく、残っている証言も断片的なものとなっています。彼 Alonzo "Lonnie" Johnson は(海外のサイトでひとつだけ Alfonzo としているものがありましたが) 13 人の子供のひとりとして生まれており、父と兄弟からなるファミリー・バンドの一員として音楽に触れるようになったとされています。 その彼がやがて独立して New Orleans のカフェ(つーても中にゃあかなりいかがわしいトコもあったらしいよ)で演奏するようになり、次いで、海外に派遣されていたアメリカ軍兵士を慰問するために Will Marion Cook の Southern Syncopated Orchestra に加わり、ヨーロッパに旅立って行ったのですが、その間に悪質な「スペイン風邪」がもとで、兄弟のほとんどと父を失っています。帰って来た彼が見たのは、かろうじて生き残った母と唯一の兄弟 James "Steady Roll" Johnson の二人だけでした。 その James Johnson と二人、1920年に St. Louis に移っています。この時期は Charlie Creaths Jazz-O-Maniacs の一員として、またミシシッピー河を航行するリヴァー・ボートで Fate Marable のバンドのメンバーとして活動していたようです。 1925年にはブルース・シンガーの Mary Johnson(元々 Johnson 姓だったんでしょね?)と結婚し、さらに Okeh Records がスポンサーになったコンテストで優勝し、ごホウビにレコーディング。年代から言ってこれしかないでしょ、っつーコトで、その時吹き込まれたのが Falling Rain Blues / Mr. Johnsons Blues ─1925年11月 4日、St. Louis にて録音、Okeh 8253 として発売─これだと思います。 その後ジャズ系の Eddie Lang、Louis Armstrong and his Hot Five、そして the Duke Ellington Orchestra などとも関わっていますが、そこらはそっちカンケーのサイトでどうぞ。 1930年代初め( 1931年の早春)には New York で Okeh に Beautiful But Dumb などの吹き込みも行っていますが、やがて Ohio 州 Cleveland に移り、the Putney Dandridge Orchestra に参加する一方、タイヤ製造工場や製鉄所でも働いたりしてるんですよ。 そして1937年からは Chicago に移動し、Johnny Dodds や Jimmie Noone とも活動を共にしています。 1939年には Bluebird と契約、1942年 2 月13日の Chicago での録音では今日の表題曲を含む 10 曲を吹き込んでいます。 Hes a Jelly Roll Baker とカップリングとなった When You Feel Low Down( Bluebird B9006 )をはじめ、Baby, Remember Me / Lonesome Road( Bluebird34-0714 )、Fly Right, Baby / Ramblers Blues( Bluebird34-0708 )、The Last Call / From 20 To 44( Bluebird B8980 )、The Devils Woman / Heart Of Iron( Bluebird B9022 )がそれ。 1946年には Blind John Davis と Lonnie Johnson のデュエットで Disc label に吹き込み、1947年には同じくデュエットで Aladdin label にも吹き込んでいます。また1948年には単独で Tomorrow Night を King Records に吹き込み、これは同年の R&B チャートで 30万枚を売る最大のヒットとなりました。また1952年には渡英した最初のブルースマンとなっています。 しかし、その後一時期、Lonnie Johnson は音楽ビジネスから離れていたのですが、ジャズ愛好家(?)の Chris Albertson によって1959年に再発見された時には Philadelphia の Ben Franklin Hotel の門衛をしていたそうです。 1961年には音楽界に復帰し、Spivey に二枚のアルバムを録音しています。また1963年の American Folk Blues Festival にも参加しています。 1965年にカナダの Toronto にあるコーヒー・ハウス、the Penny Farthing に出演したことがきっかけとなって、その街に住むようになりました。そして Home of the Blues というクラブまで開いています。1967年には彼の最期のレコーディングが Folkways に二枚。 1969年に彼は交通事故にあい、それと併発した発作によって左半身麻痺となってしまったのですが、1970年には Toronto の Massey Hall で聴衆の前に姿を見せ、それが最期のパフォーマンスとなりました。 その年の 6 月16日、事故の後遺症から来る合併症で死亡しています。 |
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