Hot Jelly Roll Blues

George Carter



2003-12-02 TUE.
昨日の日記で Ramblin' Thomas の資料が少ないのをボヤいてましたが、今日のは「もっと」なのでございます。
George Carter については1929年の 2 月ころに 4 曲吹き込んでいる、というのが知られている程度で、Yazoo のライナーでも「おそらくカポタストを使っていると思われる」とかコード・プログレッションについて記述しているだけで、そこには出身地すら記載がありません。でもねえ、資料が無いからってゆー理由でこっから締め出すのもナンだし・・・ てなワケで、ムリヤリ採用でございます。
この「 Hot Jelly Roll Blues 」、Yazoo のライナーでは A のワンコード、となっていますが、実際には A# で、これはおそらく G オープンに 3 フレット・カポタストじゃあないでしょか?とっても自由な弾き方で、タイムもクロックも好き放題って感じでいいですねえ。

Recorded for Paramount. Feb.1929, Chicago
Rising river blues 21153-2 , Yazoo L-1012
Hot jelly roll blues 21154-2 , Yazoo L-1012
Weeping willow blues 21155-1 , Flyright FLY LP 101
Ghost woman blues 21158-2 , Flyright FLY LP 101

さて、以前にも紹介いたしましたが( 2003/9/30の Mr. Freddies Kokomo Blues / "Mr. Freddie" Spruell )、1929年10月29日、「 Black Tuesday 」と呼ばれた株式市場の大暴落に始まる「世界恐慌」の影響もあって、1932年にはレース・レコードの大手だった Paramount Records が潰れてしまいました。
しかし、そこには、Artphone という会社の存在を忘れるワケにはいきません。
Artphone は Missouri 州 St. Louis で1916年の 9 月に設立された「蓄音器」の製造会社で、後に Paramount を介して収集したブルースのレコードを扱うサプライヤーとなったものです。
およそ1920年代にあっては、その後半に黒人の顧客を対象としたレース・レコードが販売されるようになり、それに伴って「家庭でも」それを再生できる「蓄音器」が徐々に浸透し始め、1930年代の中頃の市場調査では黒人の世帯、1,000サンプルの結果で、実に 27.6% がそれを所有していました。その調査では同時に Radio Set の保有率も調査されているのですが、まだ 17.4% に過ぎません。しかし、現代においてオーディオ・ファイルのダウン・ロードが CD の売上を侵食しているのとまったく同様に、放送というメディアが「レコード市場」それも特に低所得者層の多いレース・レコード・マーケットでは「大いなる脅威」として台頭を始めています。そのことに Artphone の副社長 Herb Schiele は1928年ころにすでに気付いていたようで、「確かに黒人の所得の低さを考えれば、Radio Set がそれほど急速に普及するとは考えられない。しかし、それもせいぜい 1・2 年で逆転することは大いにあり得ることだ」として市場の動向に注目し、1928年度のラジオ・セットの販売総額が 650,000,000 ドルとなり、1920年代初頭には「ラジオがレコード業界の脅威となることは無い」と判断していたレコード会社の経営陣も、「蓄音器」のみならず、ラジオ・セットの製造販売も手がけるようになり、さらに末端の販売店でもヴィクトローラなどの「蓄音器」よりもラジオ・セットに販売をシフトし始めて来たのを受けて1929年の 6 月、Artphone はレコードのサプライ事業から手を引くことを決定。

これが Paramount の「ハシゴを外した」、と捉えることも出来ます。
いくら良いソースを持っていても、それを販売するチャンネルを失っては「事業」としては成立しません。Artphone の通販の顧客リストを買い取ることにより、多少の流通は確保できましたがそれだけでこれまでと同様の規模を維持することは不可能です。さらに Black Tuesday に始まる世界的な恐慌が「決定的」だったことに変わりはないでしょうが。

ただし、ラジオが即座にレース・レコードの市場を奪った、と決め付けるには多少の問題もあります。当時の放送内容では、黒人音楽が On Air されることは稀であり、その意味ではレース・レコードを聴くことの替わりにはなっていなかったハズです。
しかし、ラジオの普及は黒人の聴く音楽の範囲をこれまでの「自分たちの音楽」中心から、白人たちの音楽にまで広げたことも確かで、そのことがブルースに与えた影響が、逆に「ある種の」共通言語を持つ結果となり、それによって白人にもブルースが存在を認められてゆく獲得資質のひとつとなっているのかもしれません。

ところで Paramount はいわゆる「電気的吹き込み( Electrical recording )」への移行に遅れをとり、1926年の秋にようやく Marsh Laboratories の手を借りてそれが可能になりました。しかし Marsh Laboratories 自体は1927年に経営シンジケートに身売りされており、それ以来あまりヤル気の感じられない Marsh Laboratories を Paramount Records は1929年に切って Gennett に鞍替えをしてしまうのですが、ちょうどそれがこの George Carter の吹き込みの直後だったようなんですよ。したがって、この録音は Chicago の East Jackson Avenue 64 番地の Lyon & Healy building の 7 階にあった Marsh Laboratories で録音されたものと思われます。

と、よーやく George Carter が出てきましたが、他には "TCI Blues" と名付けられた Max Haymes というひとの手になる the Tennessee Coal, Iron & Railroad Company、つまり「テネシー石炭・鉄鉱運搬鉄道会社」ですね、それについてのサイトにもチョロっと登場いたします。
・・・as the Georgia 12-string guitarist George Carter who recorded four sides at a single session・・・というだけなんですが。

とゆーワケで、カンジンなことはなにひとつ判りませんでした。も〜しわけない!
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