Kitchen Range Blues

William Harris



2003-12-05 FRI.
「今日のブルース」ですが、これまためっちゃ資料が少ないもんで後まわしにしてたひとのです。
Vestapol チューニングのオープン E と思われるギターはブーギ・フォームのリズムをとってはいませんが、歌詞もコードも標準的なブルース進行の A-A-B というパターンをきれいにおさえた曲となっています。
エグい個性はあまり感じられませんが、まさにスタンダードなブルースをゆったりと歌う余裕を味わっていただきたいですね。

収録されている Cream Of The Crop ROOTS RL-332 のクレジットによれば、1928年10月 9 日、Indiana 州 Wayne 郡の Richmond(フツー Richmond ってゆーと Virginia 州なんですが、そっちじゃないのよ。)での録音、となっていますが、他の資料とも合致しておりました。
ただ、彼をミシシッピー・デルタ出身と推定する説と、1927年 7 月18日の初吹き込みが Alabama 州 Birmingham で行われている事実をもとに、Alabama 系のブルースマンである、とする説が存在します。特に、この日付に注目して、彼が F.S.Wolcott の Rabbit Foot Minstrels の一員だったのではないか?とする( by Jason Ankeny )説があり、それは翌 1928 年10月の 9 日からの 3 日間という二度目の録音の日付も合致することによって説得力を持っていますが、残念ながら、同ショーのメンバーの陣容を証明できる資料があってのことではないので、これもまた推測の域を出ない、と言って良いでしょう。もっとも、Rabbit Foot Minstrels のメンバーだったとすれば、ますます録音場所と出身地(というかホーム・ポジション?)の関連性は希薄になってしまうでしょうけど。
William Harris の足どりは、1928 年10月11日の 3 曲を最期に「消え」てしまいました。
どこで、いつ生まれて、どんなふうに育ち、どう生きて、いつどこでどのようにして死んでいったのか、すべてナゾのまま。

とゆーワケで、アっちゅう間に終っちゃいましたねえ。ま、タマにゃあいいか?
そのかわり、と言っちゃあなんですが、Gennett Records についてのゴタクなど・・・

1872 年 Indiana 州 Richmond 市に流れついたピアノの職人が、その翌年に最初の一台を送り出しました。
この Richmond は Wayne 郡の庁舎がある街で人口はおよそ 10,000人ほどだったようですが、この街に登場した新しい産業「ピアノ製造業者」は当初、様々な名称で呼ばれていたようですが、同地のプチ財閥だった Starr 一族が出資を検討し、1878 年に James と Benjamin の二人の Starr 氏がピアノ製造会社として the Starr Piano Co.を設立しています。これには傍を流れる Whitewater River の水力を利用する、という地の利もあったようですね。
1893 年にこの会社の経営に参加したのが Gennett 一族です。同社のピアノは Chicago での展示会で認められ、それを契機として、Benjamin Starr を社長に、Henry Gennett を財務担当重役として迎えることで会社は一層の飛躍を遂げることとなりました。1906 年にはすでに 600 人の従業員を抱えるまでになっています。
1916 年には蓄音器とレコード部門のために 6 階建てのビルを建造しています。そして the Starr Piano, Phonograph そして Gennett Records が発足したのでございます(蛇足ながら Starr 冷蔵庫・冷凍庫、さらにトーキー上映のためのシンクロナイザー:フィルムと音声を合致させる装置です─や木製のプロペラ、第一次世界大戦で使用された塞空気球のヴァルヴ、Radio Set の木製キャビネットにまで手を広げていたようですが)。
1920 年代には放送にも進出しています。

さて、1902 年から the American Graphophone Company( 後の Columbia )と the Victor Talking Machine Co. は吹き込みに関する技術特許をほとんどおさえ、新規参入を排除し続けていたのですが、Vocalion、Emerson、Brunswick、そして Starr などの後発の小メーカーが徐々に侵食して来るようになり、Victor は法廷闘争に持ち込みましたが、二審の連邦巡回裁判では特許そのものが失効しているとして控訴棄却となりました。
ただ、それらの小メーカー間でもパテント争いはありましたが、やがては各社間でマスターを貸し出ししたりするネット・ワークへと発展していきます。Gennett は遂には数百ものマスターを所有し、年間 30 万枚ものレコードをセールスするほどになって行きました。ついでながら Starr Piano では 1928 年に 15,000 台のピアノと、手巻き動力の蓄音器 3,500 台を売るほどになっており、同年の Gennett のマスターに加わった音源は実に 1,250 と、Victor の 1,900 にかなり迫るものでした。また、列車の通過によって度々レコーディングがストップされるため、Starr 社の敷地内で南端に移転しています。その日付までは不明ですが、William Harris が録音した10月にはさて、はたしてその新しいところなんでしょか?

1916 年から 1934 年にかけて Gennett Recording Service の the Richmond studio ではブルース、ジャズ、カントリー、他のエスニック系など膨大な数のレコーディングが行われました(含・電気的吹き込み。中には New York 録音も含まれているようですが)。

有名なものとしては 1922 年の the Friars Society Orchestra(後の the New Orleans Rhythm Kings )や、 Jelly Roll Morton、King Olivers Creole Jazz Band、Louis Armstrong、Lil Hardin。
1924 年、 Bix Beiderbecke(あの「星の時計のリデル」の Hue Vicks Beiderbeck の元ネタだな、きっと!)、 the Wolverines、 Bix and his Rhythm Jugglers( featuring Tommy Dorsey )、Hoagy Carmichael(の「Star Dust 」の最初のヴァージョン!)・・・
ね?スゴいでしょ。

しかし「大恐慌」が到来します。1929 年には 75,000,000 ドルだったレコード業界の市場は 1930 年には 18,000,000 ドル、1931 年にはついに 5,500,000 ドルにまで縮小してしまいました。ここで Gennett をはじめとする小レーベルは業界から姿を消してしまうことになります。
The Starr Piano Factory はピアノの生産のかたわら、他のレコード会社のためのプレス事業は細々と続けていたようですが、最終的には Gennett の Champion レーベルの権利を Decca に売却してしまいます。
その後 1940 年代に一時 Joe Davis が Gennett を復活させますが、1949 年、Starr ピアノの最期の一台が送り出され、残されたビルは徐々に荒廃していきます。現在はかっての The Richmond Studio の場所にはジャズやブルース、さらにカントリーやポップスなどで Gennett を賑わせたアーティスト達の壁画が描かれています。その中で星形の中央に Henry Gennett、周囲にアーティスト 5 人を配した壁画には、下の左っとこに「あの」 Screamin' Jay Hawkins の母のお気に入りだったという「Take me back to my boots and saddle ( W.G.Samuels-L.Whitcup-T.Powell )」の Gene Autry がいるじゃあ〜りませんか!( こちら
permalink No.590

Search Form