Hobo Blues

Yank Rachel




2003-12-07 SUN.
みなさまもご存知のとおり、Yank Rachel と言えば数々のセッションでのマンドリンが知られております。が、ここで採り上げましたのは、1941年 4月 3日、Chicago において Bluebird に吹き込まれた「ギターを弾いてる」 Yank Rachel でございます。
ややウルサいくらいのバックのハープは案の定(?) Sonny Boy Williamson。
ベースは imitation string bass かも?っちゅうクレジットがありますのでそれがナニを意味しとるのか判断に苦しみますが、「ある程度」低い音ながら、ピッチが安定してないとこを見ると、あるいはウォッシュ・タブ・ベースの類やもしれません。パーカッションは Washboard Sam だしね。いちおーベーシストとして William Mitchell の名がクレジットされとりますので、Jug Pot じゃないのは確かなよーでございます。

Yank Rachel の歌はなかなか堂々としていて、そこそこ説得力がございます。
で、ギターのほーは、ってえと、やはり(?)マンドリン的な弾き方が所々に顔を出して、さすが、って感じでございますねえ。
モノーラル録音のため分離が悪く、いくらヘッドフォーンでチェックしても判然としないのですが、どーも、やや距離をおいた和音系を吹いているハープと、手前でトレブリィな音色で迫ってくるよなオブリ入れてるハープと「二人いる」ように思えるのでございますが、もちろんクレジットにはそんなコトは書いておりませんし、かなり集中して聴き込んでみたのですが、「そんな気がする」の域にとどまっております。ま、そのヘンはハープのスペシャリストにお任せしちゃいましょかね。あっしじゃラチがあかないし。

James "Yank" Rachell は 1910年 3月16日に Tennessee 州 Brownsville 郊外の農場で暮らしていた George Rachell と Lula Taylor の間に生まれました。
彼がまだ 8才の時に母は仔豚を渡し、育てるように、と言いつけたそうですが、近所の住人が自宅の前で弾いていたマンドリンに魅せられてしまった Yank Rachel はどうしてもそれが欲しくなり、かといって持ち主の言う「 5ドル出すんなら譲ってもいいよ」の条件に応えられるワケもなく、結局、飼育を任されていた件の仔豚と「引き換え」にマンドリンを手に入れたのでした。マンドリンを手に家に帰った彼は、それを知った母が取り乱すサマに驚いた、といいます。
しばし嘆き騒いだ後で「今度の秋には家族みんなで豚肉のご馳走を食べるけど、あんたはマンドリンを食べなさい」とはまた気が利いてますね。
そうまでして手にいれたマンドリンですが、元々マンドリンはアパラチア系や、ヒルビリー系など、ヨーロッパ周辺諸域の白人の民俗音楽とのほうが親和性があり、黒人でのプレイヤーは稀でしたから、とうぜん彼にその弾き方を教えてくれるようなひともおらず、もっぱら独学で「つまびいて」おったもののようです。
しかし、遂に一筋の光明が!(あれ?「光明」に一筋はヘンか?)それは 7月20日の日記でも採り上げた Hambone Willie Newbern でした( 1929年に「Rollin' and Tumblin' 」を初めて録音した、つまり録音として残した最初のブルースマンという意味であり、彼が作ったかどうかは別のモンダイ。Hambone Willie Newbern は、1899年に、Mississippi 州、あるいは Arkansas 州あたりで生まれたのではないか?と言われていますが、名が知られるようになった頃には Tennessee 州 Brownsville 周辺にいたようです。よろしかったらおヒマなおりなんぞに 7月20日付の日記もご参照くださいませ)。
Hambone Willie Newbern はYank Rachel にマンドリンを教えてくれて、彼に欠けていたマンドリンに関する知識なども教えてくれたようです。以来、彼らは連れ立って Brownsville 周辺のハウス・パーティなどで演奏もしたようですね。
続いて知りあったのが、これも当時 Brownsville にいた Sleepy John Estes で、こちらともツルんで演奏したり、一緒に遊んだりもしたようで、その友情は 1977年の Eates の死まで続きました(あの Hammie Nixon と知りあったのもこの時期と言われています。その後 Estes と Hammie Nixon はコンビで第1回のブルース・フェスティヴァルのために日本にまで来るワケですが)。
彼らはジャグ・バンドのようなカタチをとって Tennessee から南部諸州にかけて、聴衆が白人であろうと黒人であろうと演奏してまわったようです。1920年代の中頃、このトリオ(つまり Yank に Estes そして Hammie Nixon ね)は Memphis に河岸を変え、さらにパワー・アップして行きますが、やはりそれには Memphis という環境が寄与していたことでしょう。
Handy Park を手始めに、後にはピアノの Jab Jones と James "Yank" Rachel、John Estes のトリオで「 Three J's Jug Band 」を結成し、クラブなどで演奏もするようになりました。
1929年、The Three Js は Victor に吹き込むチャンスを掴んでいます。その時の「Broken-Hearted, Ragged and Dirty Too 」の出来が良かったので、すぐさま Victor は同年の 9月と10月に計 5曲を追加することとなりました。「Divin' Duck Blues 」をはじめ、それらのレコードはケッコウ売れたみたいで、さらに翌年の 5月にも録音するはこびとなったほどです。なお、この時の録音ではバックにハープの Noah Lewis が参加しています( Noah Lewis は1895.9.3、Tennessee 州 Henning 生まれ。Memphis に移り Gus Cannon の Cannon's Jug Stompers の一員となる。グループでは1927年の Paramount が初録音となる。後に「Going to Germany 」で脚光を浴びるものの「大恐慌」の波に飲み込まれてしまう。極度の貧困の中、1961年 2月 7日、凍傷から来る壊疽によって死亡した)。
でも、この状態も大恐慌によって終り、( Estes は Chicago に出て行き Decca や Bluebird への吹き込みを続けますが) Yank Rachel は Brownsville に戻っています。農業をして、あるいは L&N Railroad で働き、数年を過ごしました。また、この間に彼は結婚して家庭も築いています。それでも、ちょっと小金が必要になった時など、近所のハウス・パーティなどで演奏して稼いだりはしてたようですが。
そして John Lee "Sonny Boy" Williamson と一緒に演奏するようになったのも、この二人だと「稼ぎ」がいいからだったようです。"Sonny Boy"は Jackson にいて、二人は週末ごとに Jackson か Brownsville で演奏していたようですが、この二人は友人として、息も合っていたのではないでしょうか。1938年に一緒に Chicago で Bluebird に録音し、お互いの名義のレコードに、それぞれバッキングをつけています。
この二人の共演関係は 1948年の "Sonny Boy"の突然の死まで続きました。
ただし、この時期は Yank Rachel はまだ Brownsville にいて(後に、まず St.Louis、さらに Indianapolis までは来ていた、という資料もありますが・・・)、録音の時に Chicago に出てくる、という状態だったようです。というのも、彼には前述のとおり「家庭」があり、おまけに奥さんの健康が優れなかったため、あまり頻繁に家を空けられない、という事情があったようです。
その「連れあい」が 1961年、天に召されてからは、Indianapolis に居を移し、積極的に演奏に、またレコーディングに、と活動を開始したのでした。

後年、彼の古い友人である Sleepy John Estes が Brownsville で「生きている」のを再発見されるや、Yank はすぐに Estes & Hammie Nixon とのチームを再結成し、コーヒー・ハウスやコンサート、フェスティヴァルにも出演するようになって行きました。
一方で Yank Rachel はソロとしての活動もしており、遠くヨーロッパにまで足を伸ばしています。また1970年代には J.T.Adams や Shirley Griffith とストリングス・バンドとしての活動や Blue Goose などへのレコーディングもしていますが、1977年の Estes の死に際し、彼の音楽への意欲はどうやら大きく削がれてしまったようで、その後も時おり演奏の場に出てくることはあったようですが、レコーディングも散発的になり、the Slippery Noodle Inn の準レギュラーではあるものの、極まれにローカルなミュージシャンのアルバムに顔を出す程度となっていました。

「 James "Yank" Rachel、Indianapolis 在住のブルースマン、1997年 4月 9日に死亡。87才でした」

え?マンドリンのことに殆ど触れてねえな、って?そら仕方おまへん。いかに雑食性のワタクシでもマンドリンについてのウンチクは持ち合わせとりませんのじゃ。 2本づつ 4組み、8本の弦で、って位は知ってますが、調弦は?なんて尋かれてもヴァイオリンと同じよな 5度上タイプなのか、はたまたギターみたいな 4度上なのかも判りません。かすか〜な記憶じゃヴァイオリン・タイプだったよな気もするけど(っつーか、ちょっとネットで調べりゃ判るんですがね。ま、だからキョーミあるひとは自分で調べてねん)、定かじゃないっす。
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