Cleanhead's Blues

Eddie
Cleanhead
Vinson


2003-12-12 FRI.
自分のサブ・ネームに「ツルっ禿げ」をつけるあたりが実に Bald(ありのままの、っちゅうイミですが他に「禿げた、無毛の」ってイミもあり!)じゃあございませんか。その彼のナンバーってコトで Kidney Stew や、たぶん Person To Person を選ぶとこでしょうが、ワタクシの場合、その曲ならやはり、キョーフの Screamin' Jay Hawkins のが「お好き」なもので、ここは Johnny Otis Show でのメロウなサックス・プレイと対照的な

Folks! Call me mister Cleanhead, cause my head is bald on top.

って出だしに沸き立つ聴衆のリアクションが忘れられないのでこの曲に決定!( Folks! ってのは小林信彦風に訳すと「皆の衆!」ってあたりかな?)
時は1970年の夏の終り、California 州 Monterey のフェア・グラウンドで行われた一大ライヴの録音からでございます。
「あの」ストーミィ・マンデイ進行みたいな構成で進んで行きますが、ブラスをフンダンに使った和音で一層モーダルなムードがムンムンでございます。さすがに管を主体にした構成らしく、キーは「B♭」。
しかし、途中のフーチー・クーチー・マンみたいなブレイクのとこじゃ、「夏は、ってえと、ちょっぴり色が濃くなるし」なんて自分のハゲをネタにして、しっかり笑いもとっているじゃあないの。アルト・サックス・プレイヤーとしての見せ場を「歌前」にもってきて、歌ではエンターテインメントに徹するとこなど、いやあなかなか構成も考えられてますよ。

ま、Cleanhead Vinson についちゃあ、あたしなんぞよりも詳しいお方がゴッソリおられます。
中でも相互リンクしていただいてる Blue Skunk Lair には彼の主要なアルバムが採り上げられておりますので、よろしかったらそちらもご参照くださいませ。
そちらへは→ http://homepage1.nifty.com/bluesknk/cdindexe.html でどうぞ。

1917年の12月18日、Eddie(たぶんまだその時は "Cleanhead" じゃなかったハズですが) Vinson は Texas 州 Houston で生まれています。あ、そうそう、ホントかどうかは定かじゃおまへんが、縮れ毛を「直毛」にするためのアルカリ性薬液が原因で Bald Head になったのだ、とする資料も存在いたします。
ま、それはともかくとして、彼の両親はともにピアニストで、おかげで彼も早くから音楽に親しんでいたのかもしれません。子供のときからアルト・サックスを吹いており、まだ学校に通っていた少年でありながら、すでにローカルなバンドの「リーダー」を務めていたっちゅうからスゴいです。しかも学校の休みには Chester Boone のバンドとともにツアーまで行っているんですよ。
1935年、彼は学校を卒業し、当然そのままバンドのフル・タイム・メンバーとなったのでございます。後にバンドの枠組みがそのまま Milton Larkin のバンドにスライドした(この点では異説があり、Chester Boone のバンドと Milton Larkin のバンドを「まったく別にもの」としている資料もあります。ま、そのヘンはホンカーに詳しい、とあるスジからサジェスチョンが入るのを期待して、と)後もメンバーとして残り、そのバンドでは T-Bone Walker(これについては前身の Chester Boone のバンドで、であるとする資料もあります。なんせ、ワタクシ、T-Bone については追い掛けたことがございませんので、どっちが整合性があるのか判断できません)とも一時一緒にやったことがあるようですが、しかし、さらに「重要」なのは、次の二人、Arnett Cobb と Illinois Jacquet でございましょう。
えー、みなさま「ホンカー」ってご存知?え〜と、ご存知ない方は、ktate さんの『ブルース用語辞典』をご参照くださいませ。 URL はこちら ↓
http://www.ayu.ne.jp/user/ktate/Blues/Whos_who/What_that2.htm#word-ho

1930年代の後半、Milton Larkin のバンドにはこんなツワモノ(うぷぷ)が揃っておったのですねえ。そしてバンドのツアーで知りあった Big Bill Broonzy は彼に唱法を教えてくれたといいます。そして Jay "Hootie" McShann のオーケストラの Charlie Parker との交流(1941年)などを経て、これも1941年、Cootie Williams によって見出された Eddie Vinson は、New York の Duke Ellington の新しいオーケストラに参加することとなり、1942年の 4 月にそこで Okeh Records への初吹き込み( When My Baby Left Me ─ with Cootie Williams Orchestra )をしています。
続いて 1944 年には Hit Records に、1945年には Capitol Records にも吹き込みをしていますが、その間に短編映画(?未確認のため詳細不明です)『Film-vodvil no 2 (1943年)』にも出演しているそうです。
1945年の末ころには自分のビッグ・バンドを立ち上げて Mercury Records に録音もしています。ただ、Mercury での録音ではビッグ・バンドではなく、小編成のバンドで行っていたようですが。
この時期の彼のヒットについては前述の http://homepage1.nifty.com/bluesknk/cdindexe.html をご覧になってくださいませ。

1948年のユニオンの破綻以後、彼は King Records に吹き込みを開始しています。しかし、King は彼のレコードのセールスに関してあまり熱心とは言い難く、ケッキョク彼は Mercury に舞い戻っています。1950年代の中期に、一時 Cootie Williams の小編成のバンドに在籍もしましたが、1957年からは Count Basie のオーケストラとともにツアーをしています。この時オーケストラから選抜した小編成のメンバーで King 傘下の Bethlehem Records に録音( Back In Town )をしました。
ここで彼はいったん Houston に引きこもる(?)のですが、1961年、Cannonball Adderley に「再び」見出されて the Adderley brothers とともに Riverside Records に Back Door Blues を録音、以後、1988年 7 月 2 日に心臓の発作で死を迎えるまで、ジャズとブルースの両面で数々のフェスティヴァルへの出演やアルバムの製作(そのレーベルも Black & Blue、Bluesway、Pablo、Muse に JSP と多岐に渡ります)で活躍し続けたのでした。
この Johnny Otis Show と関わるようになったのは、1960年代の前半からで、1970年の the Monterey Jazz Festival におけるライヴ(つまり「今日のブルース」で採り上げた「これ」ですね)が彼の「健在」を広く知らしめた、と評価するひともいます。
1970年代に入ると彼はヨーロッパでも良く知られた存在となって行きました。

彼の死後、あらためて 1961&1962 年の Cannonball Adderley との録音をまとめたアルバムが Landmark から発売されています( with Cannonball Adderley: Cleanhead & Cannonball 1961, 1962 recordings )。
が、しかし、今夜は同じく Johnny Otis Show に収録されている Kidney Stew と二曲を聴いて Gatemouth に行けないサビシさを紛らわすことといたしましょ。
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