Jearous Hearted Man

Buddy Moss


2003-12-15 MON.
以前、James "Curley" Weaver( 1906 -1962。別名は「 Georgia Guitar Wizard 」。1920 年代からレコーディングを始め、ジョージア・ブルースでは良く知られる名前となっています。母の Savanah Shepard はゴスペル系のミュージシャンであったようですが、彼及び一緒にギターを習った Hicks 兄弟もブルースへの道を歩むこととなりました。Hicks 兄弟や Eddie Mappe とも演奏活動を行っています。Curley Weaver は1950年代末に視力を失ったために活動を停止し、1962年にこの世を去りました) や Charley & Robert( Barbecue Bob )の Hicks 兄弟( 2003/10/10「 Barbecue Bob 」、2003/10/16「 Charlie Lincoln 」)のところでさんざん名前が出て来た Buddy Moss ですが、ようやくご本人の作品の登場です。
キーは「 C 」ですから A オープンで 3フレット・カポでしょか?なかなか伸びやかなオーソドックスなヴォーカルはいい味をだしていますねえ。

Eugene "Buddy" Moss は、1914年、あるいは 1906年の 1 月26日に生まれたと言われています。この二つの年月の間には実に 8 年もの「開き」があるのですが、その後の年代との整合性を考えると、1914年とするほうにやや分があるようにも思われます。もっとも、それはあくまでも「やや分がある」という程度のものですから、とてもゼッタイとは言い切れないようですが。
続いて、彼の生まれた場所ですが、Georgia 州であることはマチガイ無いとして、同州の Warren 郡 Jewel とするもの、Hancock 郡とするもの、の二つが挙がっています。12人の子供のひとりとして小作農の家に生まれたようで、そこでまず独学でハーモニカを吹き始めたようです。彼がまだ 4 才の時に家族が移り住んで、結局ほぼ 10 年間そこで過ごすこととなった Augusta 周辺のハウス・パーティなどでまだ子供ながら演奏をするようになっていました。

そして、1928 年には彼の姿は Atlanta の街頭で見られるようになっております。
1975 年に Robert Springer のインタビューに答えて、自分のハープについて「誰の影響でもない」と断言(ま、それって皆が使う常套句って感じだけど・・・)。
「ただ、ひとの演奏はよく聴いたよ。聴いて聴いて聴きまくったんだ」
Atlanta での彼はすぐに Curley Weaver や Robert "Barbecue Bob" Hicks の注意を惹き、やがて一緒に行動するようになります。
Buddy Moss がレコーディング上に名を刻んだ最初が 16 才で、the Georgia Cotton Pickers の一員として Curley Weaver と Barbecue Bob と一緒に録音したものでした。時は 1930 年12月 7 日、Atlanta の the Campbell Hotel で Columbia のために吹き込んだ I’m On My Way Down Home、Diddle-Da-Diddle、She Looks So Good、Shes Comin’ Back Some Cold Rainy Day の 4 曲です。
Curley Weaver と Barbecue Bob のギターに Buddy Moss のハーモニカでした。

その 3 年後、1933 年の 1 月に彼自身の録音が New York で the American Record Company に行われました。
伴奏者には Fred McMullen と Curley Weaver がついて Bye Bye Mama、Daddy Dont Care、Red River Blues の 3 曲を吹き込んでいます。
ところで、その 3 年の間に彼はギターも習得していました。しかもそれは片手間なものではなく、かなり本格的なもので、もはや Curley Weaver のライヴァルとも言えるほどのレヴェルだったようです(!)。
彼は Barbecue Bob とよく共演していましたが、その Barbecue Bob が 1931年10月21日に死んでしまってからは、新しい相棒として Blind Willie McTell を選び、Atlanta 周辺のパーティなどで演奏をするようになっています。
それでも、研究者は Blind( Arthur ) Blake の名を挙げる場合がありますが、後年、彼は自分のギターについて、実際に影響を与えていたのは Barbecue Bob だった、と言明しているようです。

1933年 1 月のセッション( 6 曲 )では the Georgia Browns( Moss、Weaver、McMullen そして女性シンガーの Ruth Willis )としてのセッションも行っており、この時には彼はハープを担当しています。

彼自身の録音は ARC と協力関係にある様々なレーベルから売り出され、1933 年の 9 月中旬にはその好調なセールスによって New York に戻り、Curley Weaver と Blind Willie McTell とともに再度吹き込みをしています。
その後も Curley Weaver の伴奏で数々の吹き込みをしていますが、同時期、彼の方でも Curley Weaver や Blind Willie McTell のためのバッキングを務める、という関係でした。

それらの録音はけっこう売れたので、また 1934 年の夏にはセッションが New York で行われています。そこでは伴奏者なしのソロが録音されましたが、それだけ彼の名義のものが( Weaver や McTell 名義のものよりも)よく売れた、ということになります。
1935 年の 8 月には彼の一曲あたりのギャラが 5 ドルから 10 ドルへと倍増しています。録音が無いときの彼は Atlanta で Weaver や McTell と演奏をしていたようですが、この年、New York のスタジオに表れた彼は新しいパートナー Josh White を連れて来ています。二人は 15 曲ほどを吹き込みました。
恐らくそのままで行っていたら、彼はかっての僚友にして顧問でもあり、師匠でもあった Curley Weaver を凌ぐ存在となるハズでした・・・

多くが語られず、いまだにその真相は明らかにされてはいないのですが、Buddy Moss は彼の妻を殺害した、との嫌疑で拘引され、裁判の結果「有罪」と裁定されて、刑務所に収監されてしまったのです。
しかし、表面に表れていない真相があるのではないか、という疑いは消えず、刑務所内での素行も良く、仮釈放しても「危険は無い」と保証するスポンサーからの働きかけなどによって、1941 年に彼は社会に復帰します。
そのスポンサーとは Elon College(これと彼の関係はちょっと判りませんでしたが)と、もう一方は Sonny Terry と Brownie McGhee だったそうです。

1941 年の 10 月、彼と Sonny Terry と Brownie McGhee は New York に向かい、Okeh / Columbia に吹き込んでいます。その中からは 3 曲だけがリリースされました。その直後の12月 7 日、ハワイの米海軍艦隊が奇襲を受け、アメリカも第二次世界大戦の渦中に置かれることとなり、シェラックも戦時統制物資に指定されたために、その後のリリースはストップしてしまったのです。

Moss は Richmond、Virginia や Durham、そして North Carolina 周辺で演奏をし続けていたようです。1950 年代には Curley Weaver と Atlanta で演奏をしていましたが、すでに音楽は彼の生業ではなくなっていたようで、タバコ農園で働いたり、トラック・ドライヴァー、さらにはエレヴェーターのオペレーターなどをしていたようです。
その合間に演奏はしていたものの、彼はすでに忘れ去られた存在だった、と言えるでしょう。

1964 年、彼はかっての相棒、Josh White が Atlanta の Emory University でコンサートを開くことを知り、楽屋を訪ねたのでした。これによって彼の運命は変わります。アトランタ・フォーク・ミュージック協会の後援を受けることになり、さらにその上部組織であるワシントンの the Folklore Society によって、公演の機会が増え、さらに Nashville において Columbia label に録音することになったのです(ただし未発売)。
1966 年 6 月10日に Washington D.C.で行われたコンサートはライヴ・レコーディングされ、後に Biograph label からリリースされています。1969 年には the Newport Folk Festival にも出演、1970 年代には West Virginia での the John Henry Memorial Concert や the Atlanta Blues Festival、そして the Atlanta Grass Roots Music Festival in 1976 にも出演しています。

Buddy Moss が死んだのは 1984年の10月でしたが、正確な日付は残っていません。
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