The Dirty Dozens

Speckled Red


2003-12-19 FRI.
決して粗野というのではないけど、シルキー・スムースとはとても言えないゴツゴツしたテクスチュアの「ガリゴリ系(?)」の硬骨ピアノ・ブーギに乗せてちょっぴりいかがわしさを匂わせた、ぶっきらぼうな歌いっぷりがこれまたいい味を出しています。
ピアノの「弾き語り」なんて言うと、もっとしっとりした情感を連想しがちでしょうが、ことブギウギ・ピアノではそんなコトは「ありえません」ねん。
たったひとりで弾いて歌って、こんだけパワフルなんですから、これだったらランバー・キャンプとかの酔っ払いどもの騒音に勝てるかも。
収録アルバムは Delmark DE-601、タイトルも同じ The Dirty Dozens

Rufus G. Perryman(ミドル・ネームの「 G 」がなにを略したものかは判りませんでした)は 1892 年10月23日、Louisiana 州の Monroe で生まれています。彼(と彼の弟の William ─1911年生まれ、Rufus とは 19 才も離れている。兄弟は全部で 4 人、他に姉妹が 4 人いたらしい。父は Henry Perryman で、William が生まれた時には一家は Georgia 州の Atlanta から 32 マイルほどの Hampton にいた。しかし、姉妹の一人をかばって父が農園主に銃を向けたため、そこにはいられなくなり Atlanta に移っています。そして、すでに成人していた兄の Rufus と父の二人が働きに出ていたようです。その兄は 1921 年に Detroit に発って行ったあと、まだ学校に行っている間からピアノ演奏でカネを稼ぐようになり、徐々に Atlanta では知られた存在となって行ったようですが、そのピアノは兄の影響ではなく、Fats Waller の影響なんだって。そして、この日記では「やたら」登場するんで、もうすっかり「お馴染み」になっちゃいましたが、Blind Willie McTell、Barbecue Bob、Charlie Hicks、Buddy Moss に Curley Weaver といったギタリストたちとも交流をするようになっています。
1950 年には初吹き込み、以後 You Got the Right String, Baby ( But the Wrong Yo-Yo ) などをリリース。ついにはヨーロッパ・ツアーを行うまでになりました。1985年に死亡)
は遺伝的な色素異常で、ともに黒人でありながら白い皮膚と「赤い」髪をしていたため、どちらも「〜 Red 」という名を貰うこととなりました。彼は Speckled Red、弟のほうは Piano Red として有名になります。

弟の Piano Red のインタビューによると、Rufus が Detroit に向かったのは 1921 年となっていますが、1925 年、とする資料もあります。あ、そうそう、弟の Piano Red が生まれる前ですから、彼が知るハズのない点ですが、どうやら幼い時期を Detroit で過ごした、という資料もあります。それが、第一次世界大戦の間、Georgia 州 Hampton に「戻り」教会の足踏みオルガン(つまり、先日もここで説明した Pump Organ ですね)を弾いていたのだ、と。「戻り」とあるからには、それ以前にも Hampton にいたことがあるのでしょうか?はたして、そんなに頻繁に行ったり来たりなんて出来るもんでしょか?もしかすると「前後」の記述に混乱があるのかもしれません。
それはさておき、1920 年代の始めには Atlanta にいた、というのが弟のインタビューと符合いたします。そこからさらに Detroit に戻ったようですが、ただし、まだ音楽で喰ってはいなかったようです。
やがて南部諸州を放浪し始めたようで、Jim Jackson(おそらく 1884 年の生まれ。Mississippi 州の、Memphis から 20 マイルほど南の Hernando という小さな町の農園で育ったようです。彼のギターは父から教わったようですが、Frank Stokes からも影響を受けているとされています。1905 年にはシンガー、ダンサー、そしてギター・プレイヤーとして medicine show に雇われました。当時の medicine show は色々なエンターテイナーを雇い入れ、テントやワゴン─「フィフィ空を行く」でサーカスのメンメンが暮らしてたのがそれですねえ。え?選ぶ映画がコア過ぎる?─で生活をしつつ、各地を旅して、アルコール・ベースの強壮薬みたいなドリンクを売るためのショウをして歩くものです。1912 年にはそこ以外にも Gus Cannon の Cannons Jug Stompers で演奏したり、Hernando 在住の相棒 Robert Wilkins とも演奏をしたりしています。1915 年からは the Silas Green Minstrels、あるいは the Rabbit Foot Minstrels といった「ミンストレル・ショー」、さらに the Abbey Sutton show などに参加し各地を巡っていました。彼の持ち歌は何百曲もあったそうですが、それはブルースだけではなく、バラッドやヴォードヴィルなど様々な内容だったようで、ブルースでは、「ごく初期の」プリミティヴなものが主流だったと言われております。旅に出ていないときには Memphis の Beale Street あたりに出没し、前述の Gus Cannon を始めとして、Furry Lewis や、後に Memphis Jug Band のギタリストとなる Will Shade とも一緒に演奏をしていました。またクラブでは Pee Wees や Big Grundys、そして時には the Monarch Club にも出演しています。Speckled Red と一緒にやっていた、とされるのが、おそらくこの頃じゃあないか、と思うんですが・・・ 1927 年にはタレント・スカウトの目にとまり、Paramount Record と契約が成立しました。ただ、これをまとめたスカウトの H.C.Speir がその契約を Vocalion label に「転売」してしまいます。結局、彼は 1927 年10月10日シカゴで、有名な Jim Jacksons Kansas City Blues, Parts 1 & 2 を吹き込んでいます。それは同年12月にリリースされ、大ヒットとなりました。Vocalion はとーぜん年が明けてスグ Kansas City Blues, Parts 3 & 4 他、全10曲を吹き込ませました。もう有名になった Jim Jackson は、Memphis に居を構え、Victor などが出向いてくるフィールド・レコーディングに神輿を上げるっちゅー活動になったようでございます。その時期のヒットは Im Wild About My Lovin など。ただし、基本的に彼のスタイルは前世紀的なところがあり、新しいブルースとは異なった風合いを持ったものです。1929 年には映画『Hallelujah! 』にも出演し、勢いがつきかけたところに「大恐慌」が到来し、それも失速してしまったのでした。彼の最後の録音は 1930 年の 2 月ですが、やがて故郷の Hernando に戻り、ふたたびショーで各地を訪れたり、時には Memphis でも演奏をしたりしていたようですが、1937 年には、Hernando で死亡しています)と一緒に「仕事をした」とされています。1929 年から1930 年にかけて Brunswick に 10 曲を吹き込み、1938 年には Bluebird にも 10 曲を入れています。1950 年代になってからは Tone / Delmark label に録音しています。
この The Dirty Dozens はランバー・キャンプでのバレルハウス・スタイルのナンバーで初吹き込みは 1929 年と言われますが、12 番目の悪弊を意味したところから「 Dirty Dozen 」( Dozenってのはダース、つまり12でひとくくりでげしょ?)ってタイトルになってるらしいっす。
このデルマークのものは↓の URL で聴くことが出来ます。
http://www.delmark.com/delmark.601.htm

彼が死んだのは 1973 年 1 月 2 日、St. Louis で、でした。
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