Wildcat Tamer

Tarheel Slim


2003-12-21 SUN.
そりゃ Number Nine Train もメッチャ調子よくてキャッチーだし、なかなかいいんですが、ワタクシの好みはこっちかな?
あっち同様、バックでリフを刻むのはお馴染み Wild Jimmy Spruill。
他のメンバーはちと判らないんですが、ピシピシと決まる重心が高い、でもスピード感溢れるリズムは洗練された中にエネルギーもあって、この「グイグイ」行く感じは快いですね。
彼のギターはけっこうプリミティヴなとこもありますが、それがかえってこの曲には合ってるよな気がしますよ。
とまあ、Number Nine Train よりもこっち、ってえ方は他にもおられるよーで、イギリスの KRAZY KAT 7430(1985 )THE SWINGING SIDE OF THE BLUES - WILDCAT TAMER 1951-62 ってアルバムじゃあ、ご覧のとおりこの曲がタイトル・チューンになっております。
でも、このひともあんまり評価が高くないんですよ。
ブルースマンとしての知名度もいまいちで、なかなか採り上げてもらえないんですが、もっと注目されてもいいと思うんですけどね。
海外のサイトのひとつでは彼を unsung heroe と表現しているのがありました。佳きたとえです。

Tarheel Slim( Alden、あるいは Allen Bunn )は 1924 年 9 月24日に North Carolina 州のタバコ葉栽培農業地帯真っ只中の Winston( Bailey-Wilson )で生まれています。
彼は Nash County の Wilson 郊外の農園で成長しました。
母の Leonia Owens は教会で歌っておりましたが、彼にとって母の持っていたレコードで聴ける 78 回転 SP の Blind Boy Fuller が大きな影響を与えることになるのは当然、というものでしょう。
父の Henry Bunn は古いギターを持っており、12 才になった Alden はそのギターを弾き始めました。すぐに彼は教会の催しなどでその腕を披露するまでになったようです。1946 年には、地方の放送局にも出演したりしていた信心深いヴォーカル・グループ、the Southern Harmoneers に重心を置いていました。
時期的には、重なっていると思われるのですが、彼はまた同州 Raleigh の放送局 WPTF に出演したり、Nash 郡あたりを中心に演奏活動を行っていた the Gospel Four のほうにも在籍していたようで、そちらでは 1949 年に Gotham に吹き込みもしています。
ただ、彼が Thermon Ruth( 1914.3.6 South Carolina 州 Pomaria 生まれ。The Selah Jubilee Singers としてばかりではなく、The Larks で My Reverie や When I Leave These Prison Walls、The Harmonizing Five での That Awful Day In Dallas なども残している。2002.9.13死亡。Group Harmony Association Hall Of Fame に選定されました。 http://www.group-harmony.com/ThereJub.htmに出あったのはそれに先だつ 1947 年のことで、まもなく彼はこの伝説的なグループ、the Selah Jubilee Singers に加わっています。彼はグループのギタリストとして、またセカンド・リード・ヴォーカルとして当時このグループを経由して行った Napoleon Brown(後の Nappy Brown: 1929 年 North Carolina 州 Charlotte 生まれ。若いころから数多くのゴスペル・グループを経験する。1950 年代に入り Savoy と契約、かなりの人気を得る。1950 年代後半は何度も R&B チャートに登場、Dont Be Angry、Pitter Patter( 1955 )、It Dont Hurt No More( 1958 )、I Cried Like A Baby( 1959 )などがヒットしました。しかし忘れてならないのが Ray Charles の Night Time Is The Right Time のオリジネイターである、ってことでしょう。あ、カンケーないけど、ワタシもこの曲やってますよ。その後 Elephant Records に移るけどパっとせず、Landslide Records で 1984 年に入れた Tore Upで注目を浴びる。それを受けてツアーに出るのですが、そのバック・バンド the Heartfixers には Tinsley Ellis がギターでいました)とも出合っていたのではないでしょうか。

Jubilee Singers はニューヨークを中心とした活動をしていたのですが、この時期、彼らは複数のレコード会社と「違った名前」で関係しております。Capitol には the Selah Singers として、Signature には the Cleartones の名前で、Cross and Lee-labels には the Sons of Heaven!まあ、ケッキョク、それほどは売れなかった、っちゅうハナシもありますが、前述の Thermon Ruth は、心気一転、新しいブランドで(?)っつうことで the Jubilators というバンドを作ります。結成直後にバンド・コンテストで優勝し、50 ポンド( 22.68kg!)もあるデッカいケーキをカクトクしております(うぷぷ、メンバー 5 人で分けても一人 4.4kg!ま、家族のいるひとならモンダイ無いか?)。
1950 年 5 月10日、ニューヨークで例によって同じ日に四つの違うレーベルにそれぞれ違う名前でレコーディング( the Southern Harmonaires→ Apollo、the Selah Singers→ Jubilee、the Jubilators→ Regal、the Four Barons→ Regent-Savoy )をしちゃったのですが、やはりねえ、「悪はホロビる」っつうか、コトは露見して、Bess Berman の Apollo Records が、他のレーベルに入れた録音の権利をすべて押さえてしまったのでした。
さて、ここで Alden Bunn に光りが当たります。Got To Go Back Again( / Lemon Squeezer )が Thermon Ruth とバリトンの Eugene Mumford を従えるカタチで歌われたのです(ついでながら B サイドは David McNeil がソロ)。そして、Bess Berman の意向( ゴスペルよりも、R&B か Doo-Wop として売りたい?)を受けて、グループは Five Larks と改名しています。
これが当たり(?)1951 年から 1952 年にかけて Five Larks(メンバーから Hadie Rowe が抜けたために「 Five 」が無くなり、タダの the Larks となっていましたが)は Apollo に 11 枚のシングルを吹き込んでいます(他にマヘリア・ジャクソンのバックも務めていた)。

有名な Eyesight To The Blind では Alden Bunn のリード・ヴォーカルが聴けます。1952 年には Percy Mayfield のツアーに参加、中西部から南部をまわりました。
放送関係では Zeke Manners Show、Ted Steele Show、(まだ TV に移る前の) Perry Como Show などにも出演。 しかし、この時期を最期に Larks の活動も終り(ただし 1954 年に再結成と称して Apollo に吹き込みをしていますが、この時にはオリジナル・メンバーはバリトンの Eugene Mumford ただひとりでした)、Alden Bunn はソロとしての活動を開始しています。まず Allen Bunn & his Trio あるいは the Allen Bunn Orchestraってのを作ってバッキング・スタッフとして Apollo にブルースのレコードを吹き込みはじめました。

彼が最初に伴奏を手がけたのは、ピアノの Wilbert "Big Chief" Ellis で、次がハープの Sonny Terry とギター Brownie McGhee のコンビです。続く二枚のシングルではハープの Sonny Terry を Bobby Smith のテナー・サックスに換えてモロ R&B 色の強いものに仕立て上げました。
1953 年には Bobby Robinson の Red Robin-label に My Kinda Woman、その裏面として Too Much Competition を吹き込んでいます。ただこのときのシングルはあまり売れず、Alden はほぼ 3 年間、スタジオから姿を消しました。

1956 年、Alden は Joe Leibowitz の Premium Records のスタジオ・ミュージシャン&アレンジャーとして帰って来ました。同時にジャンプ・ブルース系のヴォーカル・グループ the Wheels のマネージャーであり、専属ギタリスト(歌ってません)でもあったようで、Premium に三枚のシングルを録音しています。この the Wheels は後に the Federals と名を変えて Premium から離れてゆくのですが、その際、Alden は彼らとの縁を切っています。
その替わり、と言っちゃあなんですが、そのころ付き合っていたカノジョ(?)で歌手の Anna Lee Sanford(そ、Little Ann ね)と再婚(最初の結婚がいつ、ダレとだったのか、それがどーなったのかも不明です)し、カノジョとカップルを組んで Aladdin 傘下の Lamp Records にまるでその二人に相応しいかのよな「 Lovers 」名義で録音を始めます。

1958 年には二人は古巣(?)の Bobby Robinson の元に帰り、彼の Fire、Fury そして Enjoy-labels に吹き込みを開始しました。この頃には、生まれ故郷の North Carolina からいただいたアダ名「 Tarheel Slim 」を名乗るようになっております。この時の録音は Tarheel Slim and Little Ann あるいは Slim and Little Ann という名前で出ていますが、有名な Number Nine Train と、この Wildcat Tamer( Fury 1016 )では Tarheel Slim の単独名義となっております。

二人の Fire でのファースト・シングル Its Too Late(キャロル・キングのじゃないよ)は R&B チャートにも顔を出しましたが、他はそこまでにも到達しなかったみたいですよ。
1960 年代中頃には二人で「ソウル・ミュージック」への進出を試みていますが、それは二枚のシングルで終りました。ただ、Tarheel Slim 個人としては 1963 年の Two Time Loser に Goodnight Irene をカップリングした Atco 6259 や Close To You / I Submit To You( Port 3001 )」などが地道に活路を開いて行きつつあり、ロックンロールのとば口まであと一歩、とゆうところだったのでしょうが・・・

1970 年代の初め、New York の Trix Records のオーナー Pete Lowry が Tarheel Slim にカムバックを薦め、1974 年までに彼は最後期の録音を行いました。そこでは彼の出発点ともなった、あの Blind Boy Fuller の音を髣髴とさせるアコースティックなブルースが納められています。まず 1970年11月29日、New Jersey 州 Montclair を訪れた Tarheel Slim は伴奏者も無しで 4 曲、Walkin 、Some Cold Rainy Day、Weeping Willow、180 Days を録音し、この四曲目だけが最後の LP No Time At All( Trix LP 3310 )でリリースされています。
その LP の方は同じく New Jersey 州 Montclair で 1971 年 1 月23日、NY の Brooklyn で 1972 年 3 月17日、同じく NY、Cottekill で 1974 年 9 月22&28日に録音されたものですが、そこには旧友の "Big Chief" Ellis や Brownie McGhee、そして新進気鋭のギタリスト Dan Del Santo も参加しています。
1976 年には Trix にニュー・アルバムとなるハズだった録音を開始しましたが、ついにそれが陽の目を見ることは無かったようです。

Tarheel Slim こと Alden Bunn は喉頭癌のために 1977 年 8 月21日、Montefiore Hospital で永眠いたしました。彼の遺骸は New Jersey 州 Fairlawn の Fairlawn Cemetery に埋葬されています。
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