The Tale Of Memphis Dreams / Vol.1

STAX


2004-01-05 MON.
まず、ブラック・ミュージックのファンには縁遠いところから話を始めることにいたしましょう。
つまり、それはもっぱら、いまのところ白人の社会での物語なのでございます。1950 年代の前半、朝鮮戦争( 1950-1953 )が一応の決着をみた時期とも重なりますが、Memphis のダウン・タウンに the Goodwyn Institute Auditorium( 1907 年に「女性に法曹関係の仕事はムリだ」という偏見から、資格を持っていながら実に 7 年間も待機を余儀なくされた Marion Griffin が彼女の弁護士事務所をようやく開設したのが、マディスン通りと三番街の南西の角にあった、この the Goodwyn Institute ビル内にでした。彼女はその後 1923 年にテネシー州議会の議員に選出された最初の女性でもあり、辞任した 1949 年まで、そこに事務所をおいていました。このビルはその後 the First Tennessee Bank Building となっています)というホールがあり、そこでひとつのエピソードが生まれています。

Memphis の放送局で 1930 年代から 1940 年代にかけてヒルビリーのスターだった Joe Manuel( Alabama 州の農村部で生まれ、まだ小さいときに家族とともに Arkansas 州のデルタ地帯に移り、そこで少年時代を過ごしています。一家は小作農だったのですが、彼はまだ十代のうちに家を出てショー・ビジネスの世界に身を投じたようで、Dave Perkins というヴォードヴィル・コメディアンのもとで歌とギター、そして聴衆を楽しませる術を学び、1930 年代の初めには Arkansas 州の放送局に出演するようになっていました。どうやら 1935 年までに Memphis に移って来たらしく、今度は Memphis の the Claridge Hotel の WHBQ に出演しています。その後 the Gayoso Hotel に WHBQ は移ったりもしていますが、ケッキョク 1950 年まで Joe Manuel は WHBQ に出演し続けました。その間に彼は中西部でもっとも名を知られた D.J. となっています)というひとがいたのですが、その彼の番組を聴いて育った若い世代がオフの時間など、次第に彼の周囲に集まり始めるようになり、その中には Joe Manuel が認めるような才能を持った若者も散見されました。そこで彼は、この若者達もそれなりの機会を与えられれば、リッパに音楽で喰っていけるんじゃないか?と考えたんですね。
そのために必要なのは、彼らの演奏をより多くの人たちに聴いてもらえる公開の場だ、と言うことで彼が交渉して獲得したのが the Goodwyn Institute Auditorium だったのです。このアイディアには元ネタがあり、それは C&W 界ではきわめて有名な Nashville のthe Grand Ole Opry がモデルであることはこりゃもう誰でも判りますね。
そこで、ライヴは毎週土曜日の宵に行うことになり、The Saturday Night Jamboree の名で開催されることになりました。それが 1953 年のことです。

その初回は Joe Manuel と彼のバンド、そして彼の旧友でもあった Marcus Van Story( もともとはギタリストだったようですが Bass Fiddle に転向したそうです。Bass Fiddle っちゅーのがウッド・ベースのことなのかもしれんけどよく判りません。そして Sun Records のスタジオ・ミュージシャンになりました。後に The Sun Rhythm Section のメンバーとして各国をツアーしている)とそのバンドからなっていました。やがて出演者が増えるにつれ、彼らの役割は司会や狂言まわし的な存在にと変化していったようです。それでも、毎回、サイゴをシメたのは Joe Manuel だったようですが。
このThe Saturday Night Jamboree は、始まってすぐに出演者が集まり始めたようで、近隣のミュージシャンにとっては大切な存在だったのでしょう。そして、その話題が地域に浸透していくにつれ、それを聴きにくる聴衆も加速度的に増え続け、すぐに公会堂は満員御礼状態になったそうです。

おそらく、その盛況ぶりは言い出しっぺの Joe Manuel も想像し得なかったほどではないでしょうか?
そんな状態でしたから、このThe Saturday Night Jamboree から巣立ったミュージシャンも少なくはなく、(ブラック・ミュージック畑のワタクシにはどれも「?」なお名前ばかりなのではございますが)例を挙げると、Johnny and Dorsey Burnette、そしてそれに Paul Burlison が加わって結成された the Rock N Roll Trio( Ted Mack の『Amateur Hour』で 3 度優勝、さらにグランド・チャンピオンも獲得し、CORAL Records と契約、「Tear It Up 」のヒットがある)、Eddie Bond( Mercury Records と契約。「Rockin' Daddy 」のヒットがある)などは、ここで初めて大衆の前に姿を現した、といっていいし、Charlie Feathers( Meteor Records と契約。初期の「ロカビリーの」ヒットと言われる「Tongue Tied Jill 」を出しています)は常連でした。その当時は主にゴスペルを歌っていた Johnny Cash は 1954 年に入ってからの常連で、Sun Records と契約する前の話になります。

・・・と、よーやく知ってる名前が出てきたとこで、今日はここまで。

よーやく正月休みも明けて日常の営みが戻ってまいりましたよ。
元旦あたりはメッチャ交通量も少なくてスイスイ走れた街中もまたラッシュ復活でございます。でも、なんとなく、このほーがいいなあ。活気があって。
さあ、明日は久しぶりのゴミの日だぞう!こゆのも「初」つけるのかなあ?「初ゴミ!」なんだかあましメデタくなさそ。
あ、収集作業してるひとはもう今日からやってるか?地区で収集する曜日が違うんだもんね。
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