The Tale Of Memphis Dreams / Vol.3

STAX


2004-01-07 WED.
Estelle Stewart は 1918 年(あるいは 1919 年)に Tennessee 州 Middleton( Memphis から State Highway-2 で東へ 90km くらいの街です)で Ollie と Dexter Steweart という両親のもとで生まれ、16 才までその街で成長しました。音楽、なかでもポップスが好きで、家族でゴスペルのカルテットを組み、そこで歌い、オルガンも弾いていました。

一方、1923 年の 1 月 5 日、遠く離れた Alabama 州 Florence でひとりの男の子が生まれています。
それこそ後に Sun Records を興すことになる Sam Phillips でした。

Estelle は 1935 年には教員資格を得るために Memphis の州立大学に入っています。
そこで知りあったのが、将来の夫となる Everett Axton でした。彼女は Middleton に戻り、12 才年下の弟 Jim の一年生の時の「先生」となっています。
1941 年には大学で知りあった Everett と結婚して Memphis に移り、自らの学校(と資料ではなっていますが、むしろ「教室」に近いスケールかもしれません。あるいは「私塾」みたいなものか?)を持って教壇に立っています。
やがて子供が生まれると、彼女は家庭に入り、育児に専念したようですが、その二人の子供があまり手がかからなくなった、ということからか、1950 年には the Union Planter's Bank に出納係として勤め始めています。そしてそこに弟の Jim も Middleton から出て来ました。この Jim は 1930 年 7 月29日に生まれています。父の Dexter は農園を経営し(そ、Stewart 家は「白人」なのですよ)、サイド・ビジネスとして大工や煉瓦職人としての仕事も受けていたようですが、その父が Jim に 10 才のときにギターを買ってくれました。彼は毎週土曜日に放送されていた Nashville からの the Grand Ole Opry を聴いて(昨日までの The Saturday Night Jamboree のモデルとなったヤツね)、耳から学んでギターを練習していたようです。また時には友人と地域のスクエア・ダンスの催しなどでも演奏していたようですが。

1945 年の 6 月には、その Jim より 7 才年上の Sam C.Phillips も Memphis のラジオ局、WREC のアナウンサー兼メインテナンス技術者として働き始めています。
同じく1945 年の Los Angeles の街で、生まれ育った遥かな Oklahoma 州 Tulsa から 1942 年に California 州に移ってきて、まず Jukebox のサーヴィスの仕事で業績を伸ばし、やがてはそれらのジューク・ボックスに供給するシングルの入手難から、そこにビジネス・チャンスを見出したとされる Bihari 兄弟が、自らひとつのレーベルを立ち上げました。当初は Modern Music label と称していたようですが、やがて Modern Records となり、それ以降さまざまな支線として 1950 年には RPM、1953 年の Flair、1954 年には Crown を計画し 1957 年に実行、1958 年 Kent、1959 年には Riviera と、一大グループの様相を呈してゆきます。その Bihari Brothers の四人、Saul、Jules、Joe、そして末っ子 Lester が分担して事業に当たっていたようですが、Lester だけは重役というよりは、セールス&プロモーション・ディヴィジョンのヘッドという「軽い」位置にいた(社長は長兄の Saul Bihari、副社長に Jules と Joe )ようで、その彼がやがてウェスト・コーストを遠く離れた Memphis で新しいレーベルを立ち上げることになります。
蛇足ながら、ウェストコーストではもうひとつ言及しておくべきレーベルがあります。
それは 1948 年に Lew Chudd によって設立され、Max Freitag を最高顧問に迎えていた Imperial Records です。でも、今回のテーマ(?)である Memphis とのつながりは薄いので、深くツイキューはしないどきますが。

Jim Stewart が Memphis に出て来たのは高校を出てからで、本人はウェスタン・スィングの Bob Willis and Texas Playboys や Pee Wee King に Tex Williams、Moon Mullican、 Ernest Tubb、そしてそっち方面にあまりキョーミの無い「門外漢」のワタクシでも知ってるくらい有名な Hank Williams などの影響を受けたらしく、カントリィ・ミュージックのフィドル奏者になりたかったようです。
Sears Roebuck(有名なアメリカのカタログ通販の会社)で働くかたわら WDIA の早朝のプログラムで登場する Don Powell の Country Cowboys の一員として演奏もしていたようです。

このころ Sam Phillips は 1949 年10月 1 日、Memphis の Union Avenue 706 番地の店舗の賃貸契約にサインし、Sun Records の前身である自らの「Memphis Recording Service」の準備を始め、翌 1950 年の 1 月 1 日に開業し、当時はまだローカルなミュージシャンだった B.B. King や Howlin' Wolf、そして James Cotton などのレコーディングを始めています。
1950 年 8 月 1 日には、Joe Hill Louis の「Gotta Let You Go / Boogie In the Park」が Sam Phillips と Memphis の D.J、Dewey Phillips の二人の「Phillips」によって発足した Phillips レーベルからリリース。
そして Bihari Brothers の Lester Bihari が Memphis で新しいレーベル Meteor を発足させたのが 1952 年でした。その年の11月に行われた同レーベルの最初のセッションは、Elmore James の「I Believe / I Held My Baby Last Night」 Meteor 5000 です。バックを務めたのは The Broomdusters( J.T.Brown のテナー・サックス、Johnny Jones のピアノ、ドラムは Oddie Payne )でした。およそ 30 分で上記以外にも 2 曲の録音がなされた、としている資料もありますが、そのヘンはまだ不明です。Meteor 5003 の「Baby What's Wrong / Sinful Woman」は、翌1953 年の 2 月に Chicago で録音されたもので、それじゃないみたいだし。

Jim Stewart は 1950 年の後期には the First National Bank で職を得ています。しかし 1953 年には陸軍に入隊(朝鮮戦争が終った年です。つまり彼は「せっかく」 The Saturday Night Jamboree という絶好の機会が存在した時期に軍務についていたワケですね)。そこでは通常の軍務ではなく、音楽演奏を主とした特別な任務につき、もっぱらヴァイオリンを弾いていました。ただし、手元の資料ではその任地についての記述が無いのでなんとも言えませんが、もしかして近くにいた可能性も否定できませんね。

その 1953 年の夏には、Sam Phillips のもとに一人の若者が現れました。母親の誕生日のプレゼントにするため、吹き込みに来たエルビス・プレスリーです。彼が歌った「My Happiness」と「That's When Your Heartaches Begin」の 2 曲を聴いてプレスリーの資質に注目した Sam Phillips は、その後10曲をプロデュースしています。さらに 1955 年 6 月 1 日には、一昨日の日記でチョッピリ名前が出て来た Johnny Cash のデビュー・シングル「Cry! Cry! Cry! / Hey! Porter」を発売。
しかし 1955 年11月 1 日、プレスリーの人気は上昇しているにもかかわらず、セールス・プロモーションを全国展開するだけの「戦略」も「戦力」も持たない Sam Phillips は、結局プレスリーのシングル 5 枚・10曲の版権と専属契約とをまとめて RCA に 35,000 ドルで売却しました。

また Jim Stewart は金融関係の州立学校に入り、1956 年に卒業しています。そして銀行でふたたび働き始めたようですが、その間もフィドルは弾き続け、Memphis 周辺をウェスタン・スィングのバンドに加わって演奏してまわっておりました。
なかでも Memphis の Lamar Avenue にあった the Eagle's Nest(って、もしかするとイマもあるのかもしれませんが、この Eagle's Nest には 1954 年 8 月 7 日、エルヴィスもその生涯で 3 度目のコンサートとして出演しています)にはよく出演していたようで、そこで彼のセンスが鍛えられたのかも?

昨日はギターのメインテナンスをチョコっとしましたが、例のサンバーストのネックの取り付けアングルの調整です。
やや Gibson っぽい伏角をつけてブリッジのコマのハイトを上げよう、ってワケです。そうするとアームの効きが一層アップするほか、チョーキングでブロックが揺れる量も増えるんで見掛け上、左手の指に来るストレスが減ります。
Red Hot と同じ .009 を張ってもこっちのほーが .100 みたいなカタさを感じるのですが、どーやら、ハード・テイルに近いブロックのセッティングが原因だったようです。(もっとも Red Hot は特別で、009 を張っても、これ .008?と尋かれてばっかりなのよね〜。最近じゃ説明すんのもメンドーなんで「まあね」と言ってます)
これでちょっとはソフト・テイル度がアップするハズ。
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