The Tale Of Memphis Dreams / Vol.4

STAX


2004-01-08 THU.
さて、昨日は Sam Phillips が 1953 年にプレスリーの録音をしたことを採り上げましたが、その 1953 年にはもうひとり、ある人物が登場いたします。

Sun Records は1950 年にスタートした「Memphis Recording Servis」(そのモットーは "We Record Anything - Anywhere - Anytime."でした)から発展して1952 年に設立された Sam Phillips のレーベルですが、1953 年に、Big Mama Thornton の「Hound Dog」へのおちゃらけたアンサー・ソング「Bear Cat」を歌う Rufus Thomas のおかげで二重の意味で Sun の存在を世間に知られることとなります。
リリースとともにその曲はチャートを昇りつづけ、ついには R&B チャートの 3 位にまで到達したのです。しかし、オリジナルの「Hound Dog」に肉薄するあまり(?) Jerry Leiber と Mike Stoller からなる原曲の「著作権」に抵触する、として訴訟沙汰になってしまったのでした。その Rufus Thomas は、1917 年 3 月26日、 Mississippi 州 Cayce で生まれ( Alt. 3 月28日、Tennessee 州 Collierville 生まれ?)家族とともにすぐ Memphis に移ったらしく、それもヴォードヴィル芸のテント・ショーでの生活を送るようになり、1930 年代の中頃にはすでに the Rabbit Foot Minstrels に所属するプロフェッショナルなコメディアンでした。彼の「音楽」の初録音は 1941 年だったようですが、それ以上に Memphis のミュージック・シーンに関わってくることになるのは、その当時としてはそれほど多くなかった「黒人経営者によって運営され」ていた放送局のひとつ WDIA の D.J. となってから、とするのが妥当でしょう。また彼は Beale Street でのタレント・ショーも組織し、将来のブルース・シーンに大きな影響を与えることになります。そして、あの Carla Thomas の父でもあります。

さて、一方の Jim Stewart は、ってえと、次第に自分たちの音楽をレコード化したい、という野心を持つようになったようで、1957 年には何曲かを吹き込みたいのだが、という提案を Sun Records をはじめとする Memphis 周辺のレコード会社に持ち込んでみました。しかし、どのレーベルも芳しい感触を返してはくれません。ところが理髪店のオーナーで、かつ自らもフィドルを演奏する人物が手をさしのべてくれたのです。
カンのいい方は「それって・・・」と気付いておられるやもしれませんが、それこそが、一昨日にとりあげた「 Jamboree」の Joe Manuel のマネージメントをてがけ、素晴らしい経営手腕を発揮した Marshall Erwin Ellis その人でございます。Riverfront と Erwin という二つの自分のレーベルを持っていた Ellis は Jim Stewart に録音するための機材を貸してくれたのでした。さらに Ellis は小さなレーベルを経営してゆくコツやその他さまざまな収入を確保する方策などを授けてくれることになります。

さて、「あの」 Bihari Brothers の Memphis での橋頭堡となるか、と思われた Lester Bihari の Meteor Records のほーはいったいどうなってたでしょ?あの Elmore James(シングル三枚 6 曲、あるいは異説では他に 2 曲が未リリースか?)や Joe Hill Louis、Sunny Blair、などをリリースして行ったのですが、経営的には成功とは言い難く、1957 年にあの「Bear Cat」で物議を醸したのをこれっぽっちもハンセーしてなさそーな芸名「 Rufus "Bear Cat" Thomas with The Bearcats」(いいドキョウしてるよねー)の「The Easy Livin' Plan / I'm Steady Holdin' On」( Meteor 5039 )や、なんと Fenton Robinson の( with the Dukes )「Tennesse Woman / Crying Out Loud」( Meteor 5041 )もリリースしているのですが、Meteor 5046 の Steve Carl with The Jags を最期に、5 年に及ぶ活動の幕を降ろしたのでございました。ある意味、時流に乗り損ねた、と言えなくもないのですが、あるいは Lester Bihari の嗜好が Blues に偏っていたためかもしれません。

Jim Stewart は Ellis が貸してくれた録音機材を妻の伯父さん(叔父さん?)宅のガレージに持ち込み、さっそく録音にいそしみ始めました。そしてようやくモノになったのは 1958 年になってからだったようです。その時のナンバーは C&W のナンバーで、「 Blue Roses 」といい、Fred Bylar という名前の D.J. の作品でした。これは後に Satellite 100 としてリリースされています。(さあ、Satellite という名前が出て来ましたよ。そーなったら行きつくトコはあれっきゃないよねー)
この時 Jim は前述の Bylar ともうひとり、リズム・ギター担当の Neil Herbert の三人でイコール・パートナーとして新しいレーベルを立ち上げ、ひとり 300〜 400 ドルを出資していました。その意味では、この処女作には多少の期待はあったのでしょうが、D.J. でもある Bylar が自分の勤める KWEM でそれをオン・エアしたものの、さしたるセールスには結びつかなかったのです。

それでも三人はこの Omni Street のガレージ(クルマ二台が入る広さだったそうです)の中、ポータブルのオープン・リール・テープ・レコーダーでレコーディングを続けました。しかし、機材による限界を感じた彼らはなんとか Ampex 350 モノーラル・テープ・レコーダー(1944 年11月 1 日に Alexander M. Poniatoff によって設立された録音機器のメーカーで、Alexander の「A」、ミドル・ネームの「M」、Poniatoff の「P」、それに Excellence の「Ex」をつけたもの、と言われていますが、異説では Experimental だという。1947 年にはハリウッドの Radio Center で最初のレコーダー、Ampex 200A を発表。1948 年の 4 月24日には ABC に 1 号機を納入。1949 年 5 月には大幅に改良されたニュー・モデル Ampex 300 を発表。1950 年秋にはその廉価版ともいえる Ampex 400 も発表。そして 1953 年 4 月には、その Ampex 400 を改良した Model 350 audio recorder を発表しています。これらの Ampex プロフェッショナル用機器は、一般家庭用のポータブル・テープレコーダーの、ものによっては 100 倍以上の価格で、それはちょうど最近の DV ハンディ・カムと、およそ 1,200 万円ほどはする業務用 Hi-Vision ENG の価格の違いに匹敵します。彼らが最初に吹き込んだのがおそらく民生用のポータブル・テープ・レコーダーだと思うのですが、それに対し Ampex はテープ速度も早いので高域特性も良く、精度・耐久性など、どのスペックをとっても民生用が足元にも及ばない「性能」を持っていました。ただし幅広のテープに上下に 8 層積み重ねた録音ヘッドで 8 チャンネル・マルチ・トラック!なんてえ時代はまだ先のことで、この時期はバンド全員が揃って一発ホンバン、途中でダレかがミスったら、また最初っから、というある種「スタジオ・ライヴ」みたいなレコーディングだったのです)を導入したい、と考えたのです。そこで Jim が思いついたのが姉の Estelle Axton に泣きつく・・・ もとい、相談してみることでした。ま、ありていに言えば、彼女の家を抵当にして融資を受けよう、ってことだったのですねえ。それに対して姉は彼をシバきもせず(?)夫を説得し、抵当権を設定し融資へとこぎつけたのでございます。
さっそく Herbert と Bylar は当時 8,000 ドルから 9,000 ドルはした Ampex 350 を購入しました。

さらに Estelle は 2,500 ドルで、自宅にレコード・レーベルを設立したのですが、1957 年に打ち上げに成功し、話題となっていた世界初の人工衛星、ソヴィエト連邦の Sputnik にあやかったのか「 Satellite 」という名前を付けています。
・・・と、ここで正式に Satellite がよ〜〜〜〜やく登場するのでございますよ。

昨日までは雪がもーすぐ消える直前の早春、って感じだったんですが、一夜明けて「吹雪」でございます。ううむ、ダレかココロガケの悪いヤツが来てるんじゃないのかあ?(ってのを読んで爆笑しそうなのがおひとりだけおられますが、それがダレで、なんのことかはヒ・ミ・ツざます)
permalink No.623

Search Form