The Tale Of Memphis Dreams / Vol.5

STAX


2004-01-09 FRI.
Jim Stewart の姉 Estelle は 2,500 ドルで、自宅にレコード・レーベル「Satellite」を設立したばかりでしたが、1958 年にはさらに録音機材を充実させたい、ということで Jim はさらなる融資を求めてきました。彼女はそれに応えて第二抵当権も設定して、自分が勤めていた Union Planters Bank から融資を引き出し、さらに投資を増加させています。
その時点でレーベルは Memphis にあった彼女の自宅から、Memphis の北東の郊外に位置する Brunswick に移されたのでした。

翌1959年の春には、ついに「歴史的」な転換点(の始まり?)が訪れます。彼らは「初めて」黒人のグループ The Veltones(ここでまた、まったくの蛇足をイッパツ。Jay Graydon のことを知らない方にはまったくキョーミの無い「道草」ではございますが、彼が 1964 年ころ、ギター三本とドラムっちゅー構成で作った最初のバンド「The Veltones」とはモチロンまったくカンケーございません。こっちの Veltones はポップスやらサーフ・ミュージック、そしてノリのいい R&B をレパートリーとしておよそ 2 年間ほど続いたようですが、その録音は残っていないそうでございます。─本人のインタビューによる)のレコーディングを行ったのでございます。つまり、このレーベルの黒人音楽との関係は、ここに始まったワケですね。
ただし、その The Veltones の「Fool in Love / Someday」は商業的な側面からは成功とは言い難く、1959 年の夏にリリースされ、 9 月には Mercury Records が 400 から 500 ドルを前払いしてそのディストリビューションを買って出たのですが、結局それ以上の収入にはなりませんでした。
そしてこの年には再び社を Memphis に戻しています。今度は月150ドルで East McLemore 通りと College 通りの角、926 番地にあった古い Capitol Movie Theater を借りて社屋としました。Estelle はその映画館だった建物のかっての売店を利用してレコード・ショップを始めていますが、それが多少は稼ぎ出す日々の「上がり」は経営をけっこう助けていたようです。
さらに彼らは映画館の改装に着手し、館内は次第にその姿を変えていきました。天井からは吸音材として垂れ布が下がり、かっての舞台上にはミキシング・ブースが設けられ、床にも吸音のためのカーペット、黄麻布による遮音壁、フラッター・エコー(完全に平行な壁面の間で発生する定在波のイタズラで、手を叩いた時など、その特定の周波数にエコーが収斂していく現象。いわゆる「鳴き竜」現象ですな。それを防ぐためには平面に多少角度をつけて音波が同じとこで反射し合わないようにすればよい)の発生を抑えるために漆喰の壁の表面には波打つような加工を施して行ったのですが、天井の垂れ布の施工以外はすべて自分たちで完成させています。結局この改装には 200 ドル程度しか掛けていません。

それでも、この一連の移転・改装のために新たな原資が必要となり、一般にも投資を募ってはみたものの、結局「ほなワシが」っちゅうモノズキ(?)は現れず、困った時の姉頼みで、またもや家屋を抵当に 4,000 ドルを工面した、と資料にはあります。ありますが、はたしてアメリカの銀行における融資の実際はどーなっておるのでしょうか?ひとつの物件に対し、評価額の枠内で小刻みに貸したってえことなのかな?ま、それがどーしたってえことじゃないんですが、なんだかフに落ちないもんで。

1960年 9 月 1 日、Sam Phillips は Madison Avenue 639 に新スタジオをオープン。

そしてついに Satellite にも幸運が巡って来る時が来ました。Sun で例の「 Bear Cat 」を吹き込んで(その後 Meteor では Rufus "Bear Cat" Thomas 名義で吹き込んだ) WDIA の D.J.だった男、Rufus Thomas が、まだ 17 才だった( Alt. 18 才)自分の娘 Carla とデュエットで吹き込んだナンバー「Cause I Love You」が Memphis 地区限定ながらも「ローカル・ヒット」となったのです。
それに注目したのが Atlantic Records の副社長だった男、Jerry Wexler( 1917 年 1 月10日、New York の Brooklyn で生まれたユダヤ系の白人で 1930 年代は貪欲なレコード・コレクターとして、1940 年代には Billboard の寄稿者として知られていますが、1953 年には在 Washington のトルコ大使の子息であった Ahmet と Nesuhi Ertegun が 1947 年に設立した Atlantic Records に、シニア・パートナー並びにプロモーションと A&R マンとして参加しました。同社ではすぐに頭角を現し、プロデューサーとして、重役として、時にはソングライターとして活躍しています)でした。彼は即座に向こう 5 年間の Satellite の「製作」を 5,000 ドルで Atlantic Records に供与する契約を結びます。Carla Thomas は今度はソロで Satellite に「Gee Whiz」を吹き込みましたが、Jerry Wexler は直ちにその録音に関する供給権は Atlantic にあることを主張しています。その結果、「Gee Whiz」は Atlantic を通じて全国に供給され、ビルボードの 5 位にまで昇り、これが Jim Stewart と Estelle Axton にとっての「初の」全米ヒットとなったのでした。

ところで Estelle Axton の息子、Packy はテナー・サックスを吹くようになっており、the Royal Spades というロックン・ロール・バンドに参加しておりました。やがて Packy はギターの Steve Cropper、同じく Charlie Freeman、ドラムの Terry Johnson、バリトン・サックスの Don Nix、そしてベースの Donald "Duck" Dunn などと交流するようになり、その高校生からなるメンバーがほとんどそのまま the Mar-Keys を形成しています。そして吹き込まれたインスト・ナンバー「Last Night」が「Gee Whiz」に続くビッグ・ヒットとなったのでした。
ところが、この曲がチャートを昇り始めたころ、Jim Stewart は California にある「別な」 Satellite レコードの存在に気付き、そのままでは訴訟沙汰は避けられない、と判断した彼はその社名を変更する決断をしたのです。
そこで Stewart のアタマ二文字「 ST 」と姉の Estelle Axton の苗字のアタマ二文字「 AX 」を組み合わせた「 STAX 」を新しいレーベル名として採用しました。
時に 1961 年、「栄光の」あの名前、Stax がその生を受けたのです。

その Stax studio に近いところにひとりのキーボード奏者が住んでおりました。まだ若いピアニストだった Booker T. Jones はやがて the Mar-Keys の Steve Cropper と Donald "Duck" Dunn、そして Al Jackson とともに「Stax Sound」の中核をなしてゆくことになります。またそのグループは Booker T. and MG’s として( MG’s の MGは Memphis Group だそうでございますよ)として吹き込むようになり、あの「Green Onions」の大ヒットを飛ばすことに!
しかし 1962 年の「特筆すべきこと」は別なビッグ・ネームの出現かもしれません。

その前にこのひとのことを少し。みなさまは Johnny Jenkins をご存知でしょうか?
1939 年、Georgia 州 Macon で生まれ、Swift Creek と呼ばれるド田舎地帯でもっぱらバッテリーを電源とする Portable Radio(つまり、電気も引かれてないイナカっつーことでしょか?)でブルースや初期の R&B、アーティストとしては Bill Doggett や Bullmoose Jackson などを聴いて育った、という彼は 9 才の時、ご他聞に洩れず、シガー・ボックスとゴム・バンドでギターを自作したのですが、(元々左利きなのか、それとも偶然そーなっただけかは資料からは判りませんでした)普通とは逆の左向きに持ち始めたようで、それは姉からホントのギターを買ってもらった後もそのままだったようです。
その Johnny Jenkins が 1962 年に Atlantic のために Stax のスタジオに録音に来たのです。
ジョージア州のローカルな放送局に出演していた彼を最初に認めたのは、後に Macon で Capricorn Records を設立することになる Phil Walden かもしれません。彼は Johnny Jenkins とそのバンド the Pinetoppers のブッキングも手がけるようになっています。と、ここで、その Phil Walden についてもウンチクをタレたいとこですが、ま、彼の場合は Macon がメインなんで、今回はパス。

その Johnny Jenkins を迎えた Stax Studio では、「あの」奇跡が起きるのですが、それはまた明日、でございます。

「巣」が 60,000 の大台を刻みました。相変わらずいいペースですね。
今回も某大物(?)はキリ番を逃したよーですが、ワタクシもo.j Award(?)の 59995 はとったんですが、次に狙った 60006 はひとつ遅く、それなら、と狙った 60009(逆さにしても一緒!)は 60012 とこれもシッパイ!いやあ、なかなか。
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