The Tale Of Memphis Dreams / Vol.6

STAX


2004-01-10 SAT.
その日、Johnny Jenkins はおそらく「Love Twist」を吹き込んだのではないか、と思うのですが、Jenkins の調子が良くなかったのか、あるいは逆に順調に進んで思いがけず早く終ってしまったのか、たぶん前者だろうとは思うのですが、およそ 30 分ほど余裕が出来たとき、プロデューサーは( Jim Stewart だった、とする資料もあります)彼と一緒にスタジオにやってきていた Johnny Jenkins のバンド the Pinetoppers のヴォーカリスト(バンドでは Jenkins がギタリストとして全体をリードしていたようです)で、お抱え運転手でもあった男に、「時間あるからキミも歌ってみる?」てなことを言ったんでしょか?男は、それじゃあ、ってんで自作の曲を出してきました。そしてレコーディング・・・
その曲こそは、いまだにその時のオリジナルを超えるカヴァーが(おそらく、これからも)存在しない名曲、名唱となったのです。

この両腕の寂しさ、哀しみ
この両腕の憧れ、お前に憧れて
もし、この両腕でお前を抱きしめることが出来るなら、その歓びはいかばかりか・・・

(原詞 http://www.lyricsdepot.com/otis-redding/these-arms-of-mine.html

These Arms Of Mine、歌ったのは Otis Redding。21 才の、まさに新しい才能が「シーン」に登場した瞬間でした。
この曲は 1962 年の10月に Stax の R&B のサブ・レーベルたる Volt からリリースされ、翌1963年の 3 月にはチャート・インしています。ただし、この曲は Otis Redding の初レコーディングではなかったようで、それは 1960 年、Otis and The Shooters.という名義で行われていますが、実質的には Johnny Jenkins の the Pinetoppers そのものだったようです(曲名などは判りませんでした)。

Otis Redding は 1941 年の 9 月 9 日、Georgia 州の州都 Atlanta からおよそ 200km 南、State Highway 520 沿いの Dawson で生まれました。
彼が 5 才の時に家族は Macon の the Tindal Heights Housing Project という(おそらくは、低所得者層のための供給住宅ではないかと思われますが)住宅地区に移っています。
彼の父は Robins 空軍基地で働き、週末には the Vineville Baptist Church の牧師(キリスト教の各宗派における呼称の区別には詳しくないので、あるいは司祭、神父、などの方がふさわしいのかも?原資料でも preacher と minister の両方が使われてます)でもあったようです。
Otis はその教会の聖歌隊で歌い始めました。ただ、彼の少年時代、父は病に臥せっていたようですが。
その後 Bellevue という Macon 西郊の土地に掘っ立小屋みたいな家を建ててしばらく暮らしていますが、そこが火事で燃えてしまったため、ふたたび Tindal Heights に戻っています。
Ballad Hudson High School の第10学年で(日本でいう高 1 かな?)おそらく家計を助けるためにドロップ・アウトして Little Richard のバンド the Upsetters で働き(資料では Play; 演奏とは書いてないのでローディーや兼ドライヴァーあたりだったのでしょか?)家には週 25 ドルを送っていました。
また、当時 Gladys Williams(このひとについてはよく判りません。地方の名士でしょか?お名前からすると女性のようですが)が主催していた Sunday night talent show(それが正式名称ではなさそうですが、賞金は 5 ドルでした)では 15 週連続で勝ち抜き、それ以上の出場を断られたのだとか。
1959 年には the Grand Duke Club で歌い始め、1960 年からは Johnny Jenkins and The Pinetoppers にヴォーカルとして加わり、その地方では有名だった D.J. の Hamp Swain によって、土曜日の朝に the Roxy Theater(後には the Douglas Theatre に)で行われていた『Teenage Party』タレント・ショーに出演したほか、バンドで南部一帯をツアーし始めます(前述の初録音もね)。なお、彼が妻の Zelma Atwood に出合ったのが 1959 年で結婚は 1961 年の 8 月でした。この夫婦の間には三人の子供が生まれ、Dexter、Karla、Otis III そして実はもうひとり、Demetria がいるのですが、この次女は Otis の死後に養子となったものです。

1962 年のこの「These Arms Of Mine」は Johnny Jenkins and The Pinetoppers のセッティングをそのまま流用したものだったようですが、それが R&B の大ヒットとなり、1961 年に新設された Stax のセカンド・レーベル Volt を大いに潤したことにより、それ以降は Stax のハウス・バンドたる Booker T. and The MG’s がフルにサポートをすることとなりました。
続いて録音された「That's What My Heart Needs」、「Pain In My Heart」、そして「Chained and Bound」は同様に目ざましいヒットとなりましたが、1965 年初頭の「Mr. Pitiful」ではその勢いがやや衰え、まあまあのヒットに収まったようです。とは言ってもそれは「売れない」ミュージシャンから見れば、そんだけ売れたら死んでもいい!なんて思わせるくらいの売れ行きだったようですが。
その間、Stax は Otis Redding のみに集中していたワケではもちろんなく、1963 年にはあの Rufus Thomas が新路線に踏み出した「The Dog」、そして「Walking The Dog」、さらに「Can Your Monkey Do The Dog」を連発しております。
ところで、そもそも Otis Redding をこの Stax へと導いた張本人(?) Johnny Jenkins さんはその後どーなったんでしょか?そのバンド The Pinetoppers から Otis Redding という不世出のスターを送り出した後、資料では「Jenkins declined, ironically, because he didn't like air travel.」と描かれております。そ、どーやら彼は大の「ヒコーキ嫌い」だったようで、(そればっかりじゃないにしても)それじゃ全国ツアーやらセールス・プロモーションなんて夢のまた夢・・・
でも、彼のギター・ワークはまだ若かったころの Jimi Hendrix に影響を与えた、なんて話もあるんですよ。
ま、それはともかく、1970 年には Capricorn にとっては初めてリリースしたアルバムとなった『Ton Ton Macoute 』を吹き込み、一部ではレビューで採り上げられたりもしたのですが、Phil Walden(実は一時期、Otis Redding のマネージャーもしてるんですよね。でもコイツの伝記だと「Otis Redding はたしかにタダモノじゃなかったが、Phil & Alan の Walden 兄弟が、ローカルなタレント・ショーのチャンピオンに過ぎなかった彼を世界に送り出した」なんてあるのを見ると、おいおい、そりゃあ違うだろ!とツッコミたくなるな。いるよね、こうゆうなんでも自分の手柄みたく語るヤツ)はそこでバッキングを務めた Allman Brothers の方に興味を移してしまいます。
1975 年にはもう一枚レコーディングしたのですが、どうやらいまだにリリースされていないようで、それにムカついた(?)彼は家族を連れて Macon に引っ込んでしまったのでした。
しかし 1996 年には新生 Capricorn レーベルに『Blessed Blues 』(バックには Chuck Leavell の keyboards、リズムには Muscle Shoals から Mickey Buckins を迎えて)を吹き込み、さらにブルース度を高めたそのアルバムは W.C.Handy Award の候補にもなっています。さらにその後、Mean Old World Records からアルバム『Handle With Care 』をリリース。

生涯を通じて、フルタイムのプロ・ミュージシャンになろうとはせず常に「昼の仕事」を持ち続けた男。家族を置いてツアーに出るなんてことを考えもしなかった男。そのデビュー・アルバムは Allman Brothers がバックを務めていることで知られている男。あの Otis Redding を自分のバンドのヴォーカルとしていた男。その Otis がブレイクしてバック・バンドに誘われたのにそれを断った男・・・ 結局 Johnny Jenkins は栄光よりも、家族との日常を選んだのかもしれません。彼にとっては 1969 年に New York の Steve Paul のクラブで Jimi Hendrix と「組んで」共演したことだってそれほど重要なことじゃなかったのかもしれません。
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