After the Deluge 2nd

Al Bell


2004-01-18 SUN.
弘前は夕方からナゼか季節外れの霧が立ち込めて、郊外ではところどころ視界が 10m ほどになってました。
さて、昨日の Alvertis Isbell の続きです。インタビューの資料に出あったのですが、イチバン知りたかったカネにまつわる辺りのハナシはやはり、これまた濃ゆい霧の中なのでございますよ。
まあ、考えてみりゃあ、ヘタなコト言うと、遡って「脱税」なんぞの嫌疑をかけられたりしちゃあたまりませんからねえ。そのヘンはムリもないんでしょうが。

それでも、彼が Stax に誘われたあたりの彼の側からの事情説明は(無条件で信用するのはちとキケンもあると思いますが)また違った「位相」を見せてくれます。つまり、これまでの資料では、Stax の Jim Stewart によって招かれたような形となっておりましたが、ここでは、その Jim Stewart はもちろんですが、なんと Atlantic の Jerry Wexler からも依頼があったようなんですねえ。
Jim Stewart は正直に会社がほぼ 90,000ドルの欠損で破産の危機に瀕していること、そこで、キミ(つまり Al Bell ね)をソンケーしてる国中の D.J.がレコードを買ってくれるようになるハズなんで頼む、なんとかウチに来てくれ、とゆーハナシがあって、そこでは、ちょっと妻と相談する、と逃げたらしいんですが、後日、Jerry Wexler に呼ばれて Atlantic で会見した際に、jim Stewart と Jerry Wexler の間で合意した事項として、両者がそれぞれ週に 100 ドル、つまり合わせて 200 ドルが毎週 Al Bell に支払われる、という点が伝えられました。
Al Bell 自身は Stax が扱っていた音楽に興味(あるいはそれ以上の「愛情」かも?)があったので、その条件で Stax への参加を決定したようですが、それを聞いた奥さんはかなりブーたれたそうです。その時点で彼の年収はおよそ数十万ドルにのぼってましたが、週 200 ドルでは一万をやっと超える程度にしかならないですからねえ。(ただし、当時、数十万ドルという年収は、それを裏付ける客観的な資料や、周囲からの証言が提示されているワケではありません)

しかし。最も重要なのは、彼が事業を好転させることが出来たら、彼に会社の所有権の一部を与える、という「諒解」が合意され、それについて一筆残された、という点かもしれません。
その当時のレコード産業での常識としては、ブラック・ミュージックの場合、アルバムでは約 30,000 枚、シングルでは 300,000 枚のセールスが限度と見なされていました。
Bell の考える黒人の所有するマルチメディアの会社、という壮大なヴィジョンが実現する見込みはまったく無さそうに思われていたのです。
しかし Stax は Sam & Dave、Johnnie Taylor、Carla Thomas、Otis Redding などによってシングルで百万枚以上、アルバムもそれに迫る枚数を売ることが出来ました。Bell の野望はあながち荒唐無稽なもの、とは言えなくなって来たのです。彼はもちろん販売促進にまつわる一切を主要な任務としていたのですが、次第に制作現場にも興味を持つようになりました。
ただ、彼自身は自分の音楽的な才能は皆無である、と考えていたらしく、スタジオでプロデュースをしよう、という気もなく、一方ミュージシャンの方でも彼にそれを望む者はいなかったようです。
ただ、Little Rock での D.J. 生活を通じて「聴く耳」だけは養成されていたようで、その上で Jim Stewart が実際に現場でどのようなことを行っているのか、そして Jimmy Reed や Ella Fitzgerald などのミュージシャンのセッションに触れるなどして次第に技術的な部分にも通じるようになって行きます。そのベンキョーの成果は 1967 年の Issac Hayes の Hot Buttered Soul で実を結びました。そして、Little Rock の KOKY 時代にはもう出会っていた The Staples Singers のプロデュースは、彼の手腕がもっとも良く発揮されたと言われているようです。実際、Al Bell が Stax で最初に獲得に動いたのがこの the Staples Singers で、でもそのころはまだプロデューサーではなかったため、スティーヴ・クロッパーが当初はプロデューサーとして担当していました。
当時 Robinson Auditorium と呼ばれた場所で the Staples Singers、Aretha Franklin、the Rev. C.L. Franklin、the Swanee Quintet、Sammy Bryant などのセッションは行われました。
そのようにしてレコーディング・スケジュールが立て込んでくると、レコーディングも様々な場所で行われるようになり、それに伴ってマスター・テープが社外で保管されるケースも増えて行きます。有名な例では Alabama の Muscle Shoals などですね。

ただ、the Staples Singers が 1972 年の R&B/Pops の両チャートを制した「I'll Take You There」の裏には Al Bell の兄弟 Louis Isbell の尋常ではない状況での死( getting killed と表現されているので「殺害された」ということだと思われます)がある、みたいなことが資料にはあるのですが、実際にはどのような状況でどのような事件が発生したのか、についての具体的な著述は含まれておらず、いや、それどころか、不合理な状況で失った兄弟は三人である、と記されております。もちろん、その他の兄弟の死に関しても詳しいことは判りませんでした。

そして兄弟と言えば、もうひとり、Paul Isbell の名が資料には登場しています。
それは Stax が Atlantic と袂を分かち、CBS との供給契約の下にあった時期のこと、ある時期から、Stax からは製品が CBS に渡されているのに、第一線の小売業者からは製品が「来ない」というクレームが続出するようになったとき、Al Bell は兄弟の Paul に小売業者に直接面談して、その経緯を探って来るように依頼しました。
と言っても、それはさらに先のこと。ともかく the Staples Singers の「I'll Take You There」には、不慮の死を遂げた Louis Isbell についての憶い出や、彼の「思い」が盛り込まれていたようです。マスルショールズでのレコーディングの最後に、実はこんな曲があるんだが・・・ という形でいきなり出したのだとか。

ある意味で彼の周辺がおぼろげながら判明してくるにつけ、また新たなナゾが立ち現れて来てるよな気がしますねえ。
彼の兄弟たちに一体なにが起きたのか?それは彼らが黒人であることに関係しているのかいないのか?
なんだか、まだまだ「さまよい」は続きそうですなあ。

冒頭でも触れましたが、久々に見る霧の夜になりました。フシギなことにとっても局所的な霧で、ちょっと陸橋に上がると霧の上に出ちゃうとこみると、地表から 2〜 3mのところまでの低いところに這うように霧が溜まっているらしく、そんなところから周囲を見渡すとたしかに低い位置に水面のように広がってます。ちょっと感動・・・
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