After the Deluge 3rd

Al Bell


2004-01-19 MON.
そもそも Atlantic と Stax の間で取り交わされた基本契約そのものが Al Bell からすれば「とんでもない」ものだったようですが、当時の彼は Stax に A&R マンとして入ったばかりで、そのような上層部の決定に口を挟める位置にはいませんでした。
Stax 側では単にディストリビュートにおけるマージン配分の取り決め、と考えていたようですが、実際には Atlantic は Otis Redding や Sam & Dave を含むすべてのマスターの権利を保有する形になっていたのです。
これはワタシ個人の推量の域を出ませんが、おそらく、この失敗を目の当たりにしたことが Al Bell をして Jim Stewart の経営手腕に対する疑念を抱かせた「始まり」だったのではないでしょうか?

結局 1972 年に設立者のひとりだった Jim Stewart は Al Bell に完全に会社を譲渡し、名目上の社長に退いたのですが、Al Bell は 6,000,000ドルの出資と引き換えに CBS Inc.にディストリビュート権を渡します。
ここでの Clive Davis との「取り決め」が実際にはどのようなものだったのかは、やはり新資料でも判るワケはありません。
Clive Davis がまだ社長だった間は「やや不鮮明な(?)」取り決めに基づいてともかく出荷した製品への対価が Stax に流れ込んで来ていたのですが、その間にも Stax はプロモーションを行って販売促進を進めていたワケですが、フシギなことに販売の現場からは、そのせっかくの「話題作」が「供給されない」というクレームが頻繁に上がって来るようになったのです。そこで Al Bell は自分の兄弟の Paul Isbell を派遣し、小売業界の実体を探らせることしました。その結果、判明したのは「やはり」ディストリビューターたる CBS Columbia から製品が供給されて来ていない、という実態で、ことここに至って Stax 経営陣は CBS との契約に関してなにかしらマズいことが起きている、ということに気付いたのです。
Al Bell によれば、この時期( Clive Davis 後?)支払いも滞り、ブツは持って行くのに、その対価がストップした状態が続いて Stax が危機感を強めていたさなか、18-wheelers(つまりアメリカの大型トレーラー・トラック)いっぱいの Stax の製品が送り出したそのままの梱包で送り返されて来たそうです。
それによって Stax はプレス業者などの下請けへの支払いなど、早晩その財政が逼迫するのは「必然」であった、と言えるでしょう。
「その頃にはまだ TOB─敵対的乗っ取りという言葉は無かったと思う。でも、つまりはそれだったんだな。製品の対価の支払いを待っていたこちらに彼らは製品を返す、という手に出て来た。こちらは 67,000,000ドルの CBS に対する独占禁止の訴訟をウデのいい法律事務所に依頼した」・・・ でも、この Al Bell の試みも成功はしませんでした。もっとも Stax と Bell に対する訴訟もすべてポシャったようなので「痛み分け」となったみたいですが。

Al Bell の父親は優れた手腕によって地域に影響力を持った企業家であったようです。その父のありかたに企業人としての彼はかなり影響を受けていたもののようで、尊敬の対象でもあったようです。
Stax が極めて難しい局面に立たされていたときに、彼は父に 50,000 ドルの援助を依頼しました。すると父は兄弟に托して翌日には 50,000 ドルを Memphis に届けてくれたのでした。
1959 年に地方の小レーベルとして始まった Stax は 1974 年には「黒人の経営する」五指に入る大企業となっていたのです。実際にはもはやガタガタになっていたとしても・・・

資料によれば、(もし事実だとすれば、ですが) CBS との間で、驚くべき「いきさつ」があったようです。CBS は Al Bell との交渉の過程で、率直に「独占禁止法」に抵触するために CBS は結局 Stax を買うことが出来なくなったことを告げ、替わりに彼を CBS の副社長にして 15,000,000 ドルを支払い、彼に Stax の所有権と収益のそれぞれ約 2 パーセントを保証する、という提案を出してきたのだとか。それが事実だとすれば、TOB の可能性を封じられた CBS が、一応 Stax を見限り、彼の黒人ミュージシャンとのコネクションを利用するために Al Bell に接近した、ということでしょうか?
CBS 側の考えた Bell の利用価値としては、新たな黒人のミュージシャンを獲得する際にも、彼の声望があれば、巨額の契約金を支払わずとも自然に集まってくるだろうから、きわめて莫大な「節約効果」が見込めるところにあった、と言われています。
ただし Al Bell の返答は「否」だったようですが。
つまり、本来ならばそのアーティストに帰すべき契約金が(そこに Al Bell 自身も含まれるとは言え)おエラいエグゼクティヴどもの私腹を肥やすだけになるワケですから、インタビューでは「 I'm not going to be a Judas.」、ユダにはならない、と答えたみたいです。

しかし、どのみち Stax は手に余る問題を抱えて頓挫する運命にありました。当時 AL Bell はプレスの下請けとして Arkansas 州 Concord の Wayne Raney と Loys Raney( Wolf Bayou 生まれのカントリーのスターでハーモニカ奏者)の Rimrock Records を使っていましたが、その会社を買いとって資産面で有利な状況に持ち込もうとしたようですが、あいにくと、その工場は Stax にとっては小さ過ぎ、結局必要なプレス(つまり最終的なレコード製品)を供給するには至りませんでした。

このように Stax 末期の、なんとか会社を存続させられないか、ともがいていた彼には、実は別な側面もあったようで、それは「政治」とのかかわり、と言うことが出来ます。インタビューによれば「私は当時の Arkansas 州知事 Winthrop Rockefeller と非常に密接に動いていました。それは、出資関係が許すならば Stax を Memphis から Arkansas 州 Little Rock に移転させようと思っていたのです。しかし、そのさなかの 1973 年 2 月22日、Rockefeller が亡くなってしまったのでその計画も無に帰したのでした。」
また後にもまた Arkansas 地方政治との関連について語っています。
「 1978 年にはふたたび Arkansas 州に戻りました。それはちょうど Bill Clinton が初めて州知事に立候補した時のことで、彼と歓談したときに、彼もまた、ここ Arkansas にそのような音楽産業があってもいいし、その種の企業が移転を計画するのであれば、様々な面で歓迎する、との主旨の発言をしてくれました。しかし実際には、彼は期待された役割を果たすことが出来ませんでした。それを支えるべき地元財界に明確なヴィジョンを持って将来を見据える視点が無かったせいかもしれません。私は結局そこを後にして南 California へと発つことにしたのです」
う〜ん、彼としては、なんとか Arkansas の地元資本からの出資を募り、Stax を Little Rock の地で「再生」させたかったんでしょうね。それでも結局また彼は North Little Rock に戻って来ます。Bryant のそばにスタジオを持つ独立したレーベル Alpine Records を息子および他のパートナーたちと設立しました。

ただし、この時期の彼について別な資料では Little Rock で時たまシングルをリリースするなどしていた、とあるのですが、ウェスト・コーストの件も出てこないし(ってゆうか、それは 1990 年代のハナシとして出てくるのですが)そちらでは Alpine 自体登場してきません。どーなってんのじゃいったい?
ま、それはともかく、Al Bell は Berry Gordy Jr. に請われ 1980 年代後期に Motown Records の社長に就任しています。1988 年には MCA と Massachusetts の持株会社 Boston Ventures に Motown Records は売却されました。その間、彼は Bobby "Blue" Bland のプロデュースをアレンジャーの Monk Higgins とともに手がけていたようです。

1990 年代に入ると彼は Los Angeles に自分の会社 Al Bell Marketing を設立しています。 それはやがて Bellmark Records となり、the Dells、the Next Movement、Rance Allen、そしてBow Wow が遺作となってしまった Johnny Guitar Watson などを抱えていました。しかし、そこでの大ヒットはラップの Tag Team の Whoomp! で、quad platinum、つまりプラティナ・ディスクの 4 倍!R&Bチャート 1 位、ポップス・チャート 2 位を 7 週続けたメガ・ヒットとなっています。

さて、インタビューで言う、「西海岸から North Little Rock に帰って来た」のが、この後のことなら、その後 Alpine Records を作った、となるのですが、カンジンのそこらへんの年代が付されていないため、またしても「?」が残ってしまいました。
ま、でも最初の本篇からすると、イロんなことが見えてきたからまあ、いいとすっか?
他にもマーティン・ルーサー・キング師とともに「行進」に参加した、とか「公民権運動」との関わりを匂わせる記述もあったりするんですが、その資料ではその一節が唐突に出てくるものの「だからどーだったのか」が欠落しておるため、さらなる調査が必要でございましょう。あ、それはワタクシのココロの中にとっときますんで日記では Al Bell、今回をもちましていちおーシメさしていただきます。さぞや「お退屈」だったことと思いますが、ちょっと気になると喰らいつく性分ゆえもーしわけございませんねん。
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