at First

July 8, 1908. Monroe County Arkansas


2004-01-22 THU.
およそ Little Rock から東に 100km、北緯 34 度 53 分 25 秒、西経 91 度 11 分 30 秒、かっての大統領からその名をつけた「Monroe」郡の中にある町、(西暦 2000 年の国勢調査によれば、人口は僅か 3,940 人。住居や店舗、官公庁を含めて 1,543 棟の建物があり、世帯数は 972。住民の 49.09% が白人で、48.55% が黒人。残りはアジア系、オセアニア系、ヒスパニックにその他となっています。とは言っても、それは 2000 年でのデータですから、1908 年当時にはどうだったのでしょうか?あいにくと、そこまで遡るデータには辿り着くことが出来ませんでした) Brinkley は市域の面積が 15.4 km² と言いますから、やはり小じんまりとした町と考えていいでしょう。
その町で音楽を教えてもいた(学校の音楽の教師なのか、あるいは音楽教室みたいのの先生なのかは判りませんでしたが)プロ・ミュージシャンからお話は始まります。

でも、その前にミンストレル・ショーについてちょっと・・・
地方の単調な生活の中で時たま巡りくる様々な「お祭」というものはメディアの発達していなかった 19 世紀末から 20 世紀初頭にかけては、今では考えられないほどの大きな存在でした。そして、そのような Fair や Carnival を盛り上げてくれるサーカスやヴォードヴィル・ショーはその中でもまさに主役級のスターだったのです。その中でも重要なポジションを占めていたのが Minstrel Show と言われる特殊な演芸集団による公演でした。
本来のミンストレルズは、白人が顔を黒塗りにして、黒人の(つもりの)唄やダンスを披露し、コメディや、場合によってはマジックまでも組み合わせて地方の老若男女を楽しませる、というものですが、もちろん、そこには人種にまつわる「人権意識」など、カケラも存在しておりません。いやそんなことも思いついてなかった 18 世紀の晩期あたりではこの程度の差別意識は「当たり前」だったのでしょう。
記録に残って(かつ特定できて)いる限り、最も古い名前として、1769(!)年の Lewis Hallam という芸人が、白人でありながら顔に靴墨を塗って酔っぱらった黒人の振りで唄や踊り、カンタンなコントのような芸を披露していたようです。
彼のその芸はたちまち有名になり、やがては「黒人音楽」と称する演奏や、踊り、かけ合い、コントなどを複合させた一大エンターテインメントとして、キャラヴァンを組んで各地を公演して歩くようになります。
しかし、初期の彼らの言う「黒人音楽」は、むしろアイリッシュやスコティッシュの色の強いものだったようで、実際に彼らが南部にもツアーに行くようになって、「初めて」ホンモノの黒人の歌唱やダンスに触れた、というメンバーが大多数だったようです。
そのような状態がほぼ一世紀ほど続きましたが、その間にも「頂点」と言えるのが 1843 年に New York の Bowery Amphitheatre で Dan Emmett と The Virginia Minstrels が公演を行ったあたりでしょう。このすぐ後の E.P.Christy が始めた the Christy Minstrels のショウとあいまって、それ以降の同種のショウのフォームを決定した、と考えられます。これらの 2 つのグループは、オペラ団、サーカスおよびヨーロッパからの旅芸人たちと同じツアー・サーキットをこなし、南北戦争まで、ショー・ビジネスを席捲していたのです。
これらのミンストレル・ショーの人気はまた奴隷制度廃止論者の隆盛とシンクロしている、と分析する資料もあります。実際の黒人の音楽とはいささか異なっていたにせよ、北部の(特に都会で生活する)白人たちにとっては、これらのショウによって(誤解を含んでいる、とは言え)黒人に対する親近感、そして、そこから黒人の文化に対する意識の変化があったのかもしれません。
ミンストレル・ショーが黒人たちの生活を「ある程度」伝えてくれたのは確かだとは思いますが、そこはショウである以上、ハッピーなオモシロおかしく暮らす人々、という「誤った」イメージもまた伝えてしまったのではないでしょうか?
また「黒塗り」はある意味、バカにしている意識が根底にあると思われます。
やがて南北戦争を経て、奴隷解放の波が襲い、白人の側の意識も変化してゆくにつれ、ミンストレルも様がわりして行き、例えば女性への参政権を求める運動や禁酒運動に関わるアピールを採り入れるなどして「黒人を茶化す」ような外観を脱ぎ捨ててゆくようになります。
なによりの変化は、「本当の」黒人の演奏家がショウに加わるようになってきた、ということではないでしょうか?そして、本来の、白人だけで、顔を墨塗りしてパフォーマンスをする「ミンストレル」は 19 世紀末で「絶滅」した、と言われています。史上最初の黒人だけで構成されるショウは Callender's Georgia Minstrels で、すでに南北戦争のさなかから早くも北部諸州をツアーしています。こうして、この手の黒人だけのミンストレルが、黒人にとってのショウ・ビジネスへの最初の入り口となったのでした。南北戦争が北部の勝利に終り、一応、名目上は黒人たちが「奴隷」という身分から解放されると、ミンストレルの規模は拡大の一途を辿り、中には New Orleans の the Silas Green Minstrel のように 1930 年代には総勢 65 人もの御一行様で客車の横っ腹にデカデカと SILAS GREEN MINSTRELS と大書して列車で乗り込み、専用の大テントでショウを行う、というものまで出てきています。(ただし、その 1930 年代からは Radio と Movie というメディアが登場することにより、ミンストレルズは徐々に下降を開始するのですが)
さて、それらのミンストレルズの中に、The Rabbit's Foot Company によって運営される Rabbit Foot Minstrels という団体もありました。およそ 20 世紀の初頭から 1940 年代まで続いたとされるこの Rabbit Foot Minstrels は Pat Chappelle という黒人が所有し、マネージメントも行っていたようです(ただし 1911 年に彼が死亡したため、F.S. Wolcott という白人がオーナーとなっています)。そしてこの一行も Silas Green 同様に、自分たちの専用列車まで備え、自前のブラス・バンドを抱えておりました。

その Rabbit Foot Minstrels の演奏家の一人で、冒頭に記した音楽の先生、しかも the Brinkley Brass Band のバンド・リーダーでもある、James Aaron Jordan という人物がおりました。そして彼の妻 Adell との間に、1908 年 7 月 8 日、ひとりの子供が生まれています。そしてその男の子こそ、まさに「巨星」と呼ぶにふさわしい、偉大な存在(あ、ワタシにとって、ね)となって行くのでございます。
でも、きょーはゴタクを並べ過ぎて、もースペースが無いんで明日に「つづく」。

今日になってからいきなり気温が下がり、市内にあって JR 奥羽本線を跨ぐ陸橋がツルッツルになっておりました。ワダチのとこが特にツルツルなんでワザとそこを外して走ってったら、前方でなにやらオッサンが路上からナニか拾ってるじゃないの!ま、トレイルを外してたのでスムースに減速できたんで轢き殺さないで済みましたが、「なにやってんだよう!アブないなあ!」と思ったら、陸橋が終ったとこ左側にタクシーが停まってて、前がグッチャリと潰れてるじゃないの!どーも推理するに、陸橋上でコントロールを失い、中央分離帯にゲキトツしちゃったみたいで、飛び散った破片を必死で回収してたらしいのですよ。うひ〜、単独事故だったらしいのが不幸中のさいわい、ってヤツですよ。
特にタクシーの場合、なんでかフロント・エンジンのリア・ドライヴ、っつー「イチバン氷結路面にヨワい」クルマを使ってるのよねー。ワタクシの Beat も後輪駆動ですが、エンジンもシートの背後、後輪の前にありますから「意外と」ケツがアバレないんですよ。
やっぱ尻の軽いのは良くないっす!
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