And...

Louis Thomas


2004-01-23 FRI.
さて、特に誰とは申しませんが、他のジャンルの音楽に接近して活路を見出し、それで延命を謀るよなアーティストっていますよね?
しかしそのよーなイミでの「クロス・オーヴァーやらフュージョン」ではなく、その持てる才能がハナから既定のジャンルに収まり切らず、それゆえに各ジャンルにまで多大なる影響を与える、でも、そこの生えぬきじゃないから、という理由で、そのジャンルのスペシャリスト(?)からは半ば他所者視される存在・・・ロックンロール、ラテン、ジャズ、R&B、そしてもちろんブルースに偉大な足跡を残しているのに、そのハミ出しぶりから純粋の「~イスト」と認められないイノヴェーター・・・ワタクシにとってはそんな風に思える偉大なるミュージシャン、1908 年の夏 Arkansas 州の小さな町に生まれたのが、Louis Thomas Jordan、いえいえ Louis Jordan そのひとなのでございます。

音楽家である父を持った、という意味では恵まれていたとは思います。しかし、一方では母親の Adell を早くに亡くしているようなんですよ。あいにくその正確な時期は特定できなかったのですが、その後の彼は祖母の Maggie Jordan、そして叔母(あるいは伯母?)の Lizzie Reid の手で育てられています。
そして 7 才から父について楽器を習い始め(一部の資料では、最初に覚えたのがクラリネットである、とされています。そして、ある日、楽器店のショー・ウィンドーに飾られていたサキソフォンに魅せられてしまい、それを手に入れるため、街中を駆けまわる「使いっ走り」で駄賃を稼いだ、というエピソードも登場しております)、ほどなく、クラリネットはもとより、サックスならソプラノからバリトンまで(見掛けとは反対に、サックスの場合、大きいバリトンの方が、小さいソプラノよりラクに吹けるのだとか)、さらにピアノまでも弾けるようになって行ったようです。ううむ、遺伝で片付けちゃうとカンタンなんでしょが、おバカな二代目なんてザラにいますからねえ。やはり「稀有」な才能に恵まれておったのでは?と思いたくなります。

1923 年には、まだ 15 才でありながら初ステージと思われる活動が記録に残っています。
生まれた町、Brinkley からは Little Rock を挟んだ反対側にある町、Hot Springs( Arkansas 州 Garland County にある町で、Little Rock の西南西、約 80km の位置にあり、Brinkley よりは遥かに大きな人口 35,750、しかし白人の比率が高く、78.86% を占めています。黒人は 16.87% に過ぎません)の Green Gables Club で Ruby "Junie Bug" Williams(あるいは Ruby "Tuna Boy" Williams )のバンドで演奏をしたようです。ただし資料によっては、そのバンドの名前を Belvedere(というのは、たしかオーストリアにあるハプスブルグ王家の宮殿じゃなかったっけ?) Orchestra としているものと、Belvedere Band としているものの二種類があります。
もっとも Louis Jordan は音楽漬けのモロ文化会系とゆーワケではなく、Little Rock の Arkansas Baptist College に通っていた間は Baseball にも熱中していたのだそうでございます。どうやら夏休み(アメリカでは夏休みが学年変わりなんでしょ?)には音楽、という配分だったのかも。
ただ、その Ruby Williams とゆーお方、名前だけは時たま登場してくるんですが、どんなひとなのか、どんな音楽だったのか、がさっぱ判りません。どーやらバンドでの演奏も残っていないようなんで、この「経験」が Louis 少年にどんな影響を与えたのか、ともかくナゾでございます。
さらに、この時期(あるいはその後、卒業してから、とする資料もあって、やや混乱しておりますが、ともかく Philadelphia に移るまでの間に) Jimmy Pryor の Imperial Serenaders というバンドでも共演していた、と言われているのですが、この Jimmy Pryor は、あの James Edward "Snooky" Pryor の「いとこ」でブルース・ハープのプレイヤーでもあった Jimmy Pryor とは「まったくの」別人のようです(また Imperial Serenaders という名前で 1920 年代以降のオールドタイム・ジャズを「あなたのパーティや催しに出張して演奏いたします」ってゆう「現代の」ビッグ・バンドはあったんですが、これまた縁もゆかりも無さそうです)。あいにく、そのヘンの資料は無いみたいなんで「推測」でしかないのですが、この頃の彼はアルト・サックスをメインに吹いていたんじゃないでしょか?もちろんクラリネットも出来たし、すでにこの頃にはピアノもかなり弾けていたようですが、本人としては、アルト・サックスが一番好きな楽器だったらしく、それは後年、むしろヴォーカリストとして有名になってからでも、変わらなかったと言います。

1930 年には彼は Pennsylvania 州の Philadelphia に移り、そこでトランペッターの Charlie Gaines のバンド、そしてチューバ奏者の Jim Winters のバンドにも参加したようです。
あいにく、この二つのバンドについてもあまり詳しいことは判りませんでしたが、Charlie Gaines とは 1933 年から 1935 年、さらにヴァイオリンの Leroy Smith とは 1935 年から 1936 年、Chick Webb とは 1936 年(1932 年から、とする資料もあります)から 1938 年、その他にも Fats Waller や Kaiser Marshall などとの交流を広げて行き、これが後の the Tympany Five となるのですが、それはもう少し先のこと。
ところで 1932 年には Louis Jordan が Julie という女性( Arkansas 州 Arkadelphia 出身だそうですが、結婚前の苗字も判りません)と結婚しています。

Louis Jordan は次に New York に移るのですが、そこで先に挙げた the Tympany Five の母体となった人たちとの交流が重要になって来るのですが、とりあえずは、その中の Chick Webb です。

Chick Webb ─ William Henry Webb は 1909 年の 2 月10日、Maryland 州の Baltimore で生まれています。
しかし、小児結核を患ったことが原因で発育不全となったのか、きわめて背が低く( 「Chick」にはヒヨコ、子供などの意味がありました。当時は「差別用語」なんて言う概念も無かったんでしょうね)、脊柱も曲がっていた、と言われています。
それでも新聞の配達でカネを貯めてドラムを買い、それが 11 才の時にはすでにモノになっていたとか。そして 1925 年には New York に移り、Harlem で自分のバンドを率いるようになりました。
そして、彼が一躍名を挙げることとなったのが Lenox Av.に面し、140th と 141st までのワン・ブロックを通して建っていたビルの 2 階にあった有名なダンス・ホール The Savoy Ballroom の専属バンドのリーダーだった時期でしょう。
このワン・ブロックの幅いっぱいに使ったホールには相対する二つのバンド・スタンドが用意されており、一方にはホーム・チーム(?)たる Chick Webb の The Savoy Ballroom Band、もう一方のアウェイ側のバンド・スタンドには時には The Benny Goodman Orchestra が、またある時には the Count Basie Band が「来襲」し、この相対する二つのバンドが交互に演奏して、ホールのみんなのリアクションで雌雄を決する『Battle of the Bands』が呼びものとなっており、しかも、しばしば侵略者たちは Chick Webb のバンドの前から「泣いて帰った」と言われております。
この Savoy Ballroom は「 Whites Only!」としていた the Cotton Club とは異なり、白人も黒人も一緒になって音楽を、ダンスを楽しむ、というスポットで、ここから生まれ、あるいはここから広まっていった新しいステップもあるほどの極めて「トレンディ」な場所でした。
しかも、バトルはまた双方のバンドにとってもお互いの交流の場となっており、New York のミュージック・シーンの重要な一翼を担っていた、と言えるでしょう。
さて、その Chick Webb が 1935 年にひとつの偉大な才能を発掘するのでございますが、彼女は Virginia 州の「ヴァージニア半島」の南端に位置する independent city(ここで言う「独立都市」とは、中世イタリアにおける都市国家のような意味合いの「独立」ではなく、アメリカにおける行政区分上の分類です。たとえば Louis Jordan が生まれた Brinkley は「市」でありながら Monroe「郡」に属しています。しかし independent city たる Newport News は「州」の下に「郡」と同格で並ぶ「市」であり、よってアメリカにはそのディレクトリを異にする二種類の「市」があることになります。日本の「市」が independent city に近い)、人口が 2000年の国勢調査では 180,150 人とありますから、ここ弘前より 5,000 人ほど住民が多い「市」 Newport News で 1917 年の 4 月25日に生まれております。
やがて 13 ものグラミー賞を獲得することになるその少女は、New York 州の Yonkers( New York City の北、Hudson 河の東岸に位置する、州内では 4 番目に大きな町。人口はほぼ 19 万人で、そのほぼ 6 割を白人が占める)で育っていますが 14 才の時には孤児になっていたようです。
その彼女が 16 才の時、1934 年の、the Harlem Apollo Theatre の『Amateur Nights』のハシリだった頃に出場し、見事に優勝をいたしました。これが彼女にとってばかりではなく、Apollo Theatre にとっても「名誉」であったことがやがて判明する・・・
ま、なにはともあれ、Chick Webb のバンドにいた Bardu Ali( 1910-1981、シンガー&ギタリスト、Chick Webb のバンドではプロモーターでもあり、M.C. でもあった。後に西海岸に移り Johnny Otis のビジネス・パートナーとなる)がそんな彼女に目を止め、Chick Webb のもとに連れて行ったのでした。そして彼女を雇うように説得したことにより、ここにもうひとつの伝説もスタートすることになります。Lady Ella、そう、Ella Fitzgerald の出現です。
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