1930's Too Much Stories! 2004-01-24 SAT. | そしてレコードもヒットし、もはや Chick Webb のバンドの主役と言っていいプレゼンスを発揮し始め、1939 年に Chick Webb が死んだ時にも Ella Fitzgerald and Her Famous Orchestra としてツアーを続けたほどでした。 その Lady Ella も 1941 年にはソロとして独立して、それ以降もますます活躍を続け、しかしそれはもはや「ズージャ」の世界でございますゆえ、このサイト、Blues After Dark が照らし出している「狭い視界」からは姿を消して行くのですけれど。 Ella Fitzgerald を世に出した Chick Webb ですが、彼の足跡はモチロンそれだけではありません。今までのところで、Louis Jordan にまつわる大体のタイムラインを載せましたが、一方の Chick Webb の側の資料では、ちょっと異なっておりましたので、そちらを尊重して綴るとこうなります。─ 1932 年、Louis Jordan と Chick Webb は New York で the Jungle Band というグループとレコーディングをした、と。そして、それから Louis Jordan は Philadelphia に向って、そこで the Charlie Gaines Orchestra に加わり、それから 3 年をそこで過ごし、Louis Armstrong の Victor への吹き込みにバッキングをつけていた。・・・ モチロン Louis Jordan 側の資料では、Philadelphia 行きは 1930 年、となっており、そこらが整合いたしません。おまけになんと、これにも異説があり、別な資料では Louis Jordan の初レコーディングを 1929 年 6 月14日、The Jungle Band という名で行った「Dog Bottom / Jungle Mama( Brunswick 4450 )」である、としています。そんなデータまであることから、一見ホントっぽいですが、そのクレジットは「あくまで」 the Jungle Band だけなワケで、それでは「Louis Jordan と Chick Webb は New York で the Jungle Band というグループとレコーディングをした」の the Jungle Band が Louis Jordan と Chick Webb 以前に吹き込んでいるものかもしれませんでしょ? さらにややこしいのは、1932 年には Louis Jordan が Julie という女性( Arkansas 州 Arkadelphia 出身だそうですが、結婚前の苗字も判りません)と結婚しています。と書きましたが、これにも矛盾する異説が・・・まったく別箇の資料でこんな記載に遭遇してしまいました。 「1932 年、Louis Jordan は歌手でダンサーの Ida Fields と結婚した」。おいおい!同じ年に二人の違う女性と結婚?Jullie が芸名で Ida Fields が本名、なんてことは無いよね?そこらヘンのことは神のみぞ知る、ってことでしょうか。 と、ここで、もひとり、Clarence Williams のこともちょっと。このひととも Louis Jordan は演奏をしている、としてる資料があります( 1932 年から)。 Clarence Williams ─ Louisiana 州 Iberville Parish の Plaquemine で 1893 年の11月 8 日に生まれた Clarence Williams は、ジャズのピアニストで、シンガーでもあり、コンポーザー、プロモーターでもあったようです。12 才で家を飛び出し、Kersands Minstrel Company が運営する Billy Kersand's Traveling Minstrel Show に加わって New Orleans に 1906 年に辿りついています。 最初は団員の靴磨きや雑用をあてがわれていたようですが、次第にその歌が認められるようになり、やがて、M.C. も任されるようになりました。 1910 年代にはピアニストとしても評価されるようになり、1913 年からは曲も書き始め、さらに、マネージメントにまで才能をみせていたようです。その彼が 1915 年には、1888 年 8 月16日生まれ( ~1943 )のジャズ・ヴァイオリニストでバンド・リーダーでもある Armand J. Piron の曲を出版する仕事まで始めています。オフィスは Chicago に設立され、1920 年代の頭には New York に移りました。さらに Okeh phonograph company のために黒人のミュージシャンを手配したりする仕事も始めています。 ところで Okeh とはドイツ系アメリカ人、Otto Heinemann( 1877-1965 )が設立したレコード会社ですが、1920 年代末には Columbia Records の傘下に組み入れられています。もともとはドイツ資本の Odeon Records のアメリカ支社のマネージャーとして着任した Otto Heinemann でしたが、ヨーロッパで吹き荒れる第一次世界大戦の戦乱を見て、アメリカに立地したビジネスの必要性を痛感して立ち上げた the Otto Heinemann Phonograph Corporation として 1916 年に発足しています。 New York City にスタジオを確保し、プレス工場も用意し、1918 年には販売ルートにも目途がつき、そこで自分の名前のイニシャルから「 OkeH 」と名付けた・・・んん?「O」と「H」は判るけど、じゃあ間の「ke」はなに?英語の「 And 」に匹敵すんのがドイツ語じゃ ke なのかなあ?あ、違う!ドイツ語では「Und」だっ!うう、判らん! ま、それはともかく、初期の Okeh Records のロゴは OkeH と、大文字になってたんだって。 Okeh の最初の吹き込みはなんでかヴァーティカル・カット(つまり回転する円盤に刻むミゾの「深さ」で決まる方法。これだと盤の厚みによってダイナミック・レンジが規定されてしまうし、針飛びが起き易い・・・)だったようですが、1919 年には普通のラテラル・カットに変えています。同時にレーベルの社名も the General Phonograph Corporation に変わりました。 よくあるポピュラーや、ダンス・ナンバーなどもリリースしていますが、Otto Heinemann は遠くアメリカに移民としてやってきた層のためにドイツはもとより、チェコスロヴァキア、ポーランド、スウェーデン、そしてユダヤ民族の音楽なども供給していたようです。ヨーロッパのレコード会社の原盤の貸与を受けてプレスしたほか、New York でも録音しています。 1920 年には黒人のブルースとして Mamie Smith を録音して送り出しましたが、これが「予期せぬ」ヒットとなりました。 以来 Okeh はそのジャンルに力点を移し、多くのブルースやジャズを録音し始めることとなります。 1922年に、そのために雇われた Clarence Williams(やっと出て来た!)は「Race」部門のディレクターとして Okeh の New York スタジオで働きました。またこの時期、Okeh は Chicago にもスタジオをオープンさせ、そちらでは Richard M. Jones をディレクターとしています。それによって Okeh には King Oliver、Sidney Bechet、そして Louis Armstrong などの録音が揃いました。 また Okeh は「フィールド・レコーディング」(原資料では location recording となっていますが)を1922年から始めており、これはたぶん他社に先駆けた試みだったハズ。1924 年には録音機材で「武装した」 Mobile Recording Trucks を送り出し、都会では聴くことの出来ない貴重な録音を Okeh にもたらしています。 ロケーションは年に一度あるいは二度、Louisiana 州 New Orleans、Georgia 州の Atlanta、Texas 州の San Antonio、Missouri 州 St. Louis、Kansas City さらには Detroit などの広範囲にわたり、ジャズやブルースの初期の姿を捉えた貴重なものも少なくありません。 1926 年にはマイクロフォンを使用する「電気的吹き込み」に移行し、その情報量を飛躍的に増大させています。しかし同年11月11日には Okeh が Columbia Records に買収されてしまいました。 それでも Okeh のレーベル名は 1935 年まで存続しています(ただし Columbia では Vocalion の権利を失った 1940 年に Okeh の名前を復活させてはおりますが)。 ところで Armand J.Piron ですが、The Olympia Orchestra( Bunk Johnson と "Big Eye" Louis Nelson Delisle を擁していた)のバンド・リーダーで、1915 年からは Clarence Williams とパートナーを組んで「音楽出版」の会社を興しています。1917 年には W. C. Handy とツアーした後、Lorenzo Tio や Steve Lewis をメンバーに入れた Piron's New Orleans Orchestra をスタートさせました。このバンドは良く稼いだようで、白人用の New Orleans Country Club にまで出演しています。 1923 年にはバンドごと New York に出たのですが全国区の知名度を目指した彼の目論見は成功し、三つのレコード会社からリリースしたりもしたのですが、里心がついた(?)メンバーたちの「多数決」によって(?)バンドは暖かい故郷へと帰ることになったのでした!ニュー・ヨークの冬は寒そうだもんなあ。 |
permalink
No.639