9 to 7? 6? 5?

Honey in the Bee Ball


2004-01-26 MON.
1938 年に Louis Jordan は Chick Webb のバンドから独立して、彼自身の 9 人編成のバンド、the Elk's Rendezvous Band を結成し the Harlem club に出演しました。さらに「 Honey in the Bee Ball」を Decca Records に録音もしておりますが、その前の Chick Webb 時代にも「 Gee, But You're Swell ( Decca 1115 )」、「 It's Swell of You ( Decca 1213 )」、「 Rusty Hinge ( Decca 1273 )」と、ヴォーカルでのトラックを残しています。
the Elk's Rendezvous Band はやがて(一部の資料で 1939 年としているものがあります)その名前を Louis Jordan and the Tympany Five と変えるのですが、このバンドには数々のプレイヤーが関わっています。
ギターでは Carl Hogan と Bill Jennings、ピアノの Wild Bill Davis に Bill Doggett、ドラムの Chris Columbus、ベースでは Dallas Bartley などなど。
Timpany Five とは言っても、その人数は時に 7 人だったり、6 人だったり、そしてホントにタマには(?) 5 人だったりしてたそうですから、やはり現場に強い(?)ライヴ・バンドだったのでしょう。しかし、ある資料では「舞台や、レコードから受ける印象とは異なって実際の彼は時間厳守で、長時間の入念なリハーサルを要求し、バンドのミュージシャンへの支払いはキチンとしていたがビジネスにおける最も厳格なリーダーの一人で、完全主義者といってよい。」と描かれています。

また別な資料ではこのバンドの音を「 Fats Waller にも似てるけど、もっとゲンキ良く、歯切れの良いリズムに、スペインっぽいとも受け取られそなカリビアン・テイストも漂っている」と表現しておりました。やはり早くからミンストレルの現場で鍛えられただけあって、ストロングで快活なリズムと「押し」の強さ(あ、誤解しないでねん、いっつも押しが強いんじゃなくて、どこで押したらいいか、どの程度、押したらいいのかを「熟知している」ってことなんですよ)を自由に操れたのじゃないでしょか。
南部のフェアやカーニヴァルに繰り出して来る老若男女を相手にするミンストレルでのパフォーマンスや Savoy Ballroom での「 Battle Of The Band 」も、根源的なエンターテインメントの実力を養成するには、またとない揺籃だったことでしょう。カリビアン・テイストについちゃあ、ダンス・ナンバーからの影響が大きいのかもしれませんね。

1939 年から 1942 年にかけては、アメリカ国内の演奏旅行を精力的に組むようになり、その合間にかなりの曲数のレコーディングも行っています(って、モノはとりようですから、レコードを重視する立場に立てば、「レコーディングの合間にツアーもこなした」となるのかもしれませんが)。Louis Jordan はステージでは必ず「コメディ」の要素を盛り込んでいたそうですから、その辺りにもかってのヴォードヴィルの影響が出ていたのかもしれません。そのちょっとしたコントやらギャグは聴衆に熱烈に支持され、それは黒人のみならず、白人の客をも失望させることはなかったようです。

その The Timpany Five は 1939 年 3 月29日、「Keep A-Knockin/At the Swing Cats' Ball( Decca 7609 )」をレコーディングしています。続いて 1941 年 4 月 2 日には「Brotherly Love/Saxa-Woogie( Decca 8560 )」をレコーディング。
しかし、次の同年11月に録音された「I'm Gonna Move to the Outskirts of Town」は裏面に「Knock Me a Kiss」というカップリングでしたが、これがレース・レコードの枠を越えてビルボードのポップス・チャートの 3 位にまで昇りつめました(前者は11月22日、後者は11月15日の録音)。
おそらく、彼がスターとして認められるようになったのはこの時からでしょう。そして、そこからは次々とヒットが連続してゆきます。(ついでながら、この時、他に「The Green Grass Grows All Around」、「Small Town Boy」、「Mama Mama Blues」、「It's A Low Down Dirty Shame」の 4 曲も録音されています)
翌1942年には 7 月21日のセッションでふたたび「I'm gonna leave you on the outskirts of town/It's a low down dirty shame( Decca 8638 )」、「What's The Use of Getting Sober/The Chicks I Pick Are Slender And Tender And Tall ( Decca 8645 )」、「That'll Just 'Bout Knock Me Out/Five Guys Named Moe ( Decca 8653 )」、「Is You Is or Is You Ain't( Decca 23630 カップリングは Five Guys Named Moe )」などを吹き込んでいます。サイゴの「Is You Is Or Is You Ain't」は、あの Screamin' Jay Hawkins も『Black Music For White People』( Demon Records FIEND CD 211─1990年の 8 月から12月にかけて、Bizarre Records により、ハリウッド の「TRACK 2nd」スタジオで録音され、翌’91年に発売された。Deisco ヴァージョンの I Put A Spell On You や、なんでか日本人のオネエチャンが S.J.H. にセマる怪曲 Voodoo priestess なんてえスゴい曲も!)の中でやってますが、さらに有名になったのは「Five Guys Named Moe」でしょ。これは彼らのテーマ曲みたいになります。
あ、そうそう、最初(1932年の)がちょっと「?」だったんで、これが正確には何番目なのかサダカではないのですが、1942 年に Fleecie Moore という女性と結婚しております。

そして 1943 年10月 4 日には「Ration Blues/Deacon Jones ( Decca 8654 )」、「G.I.Jive( Decca 8659 カップリングは Is You Is or Is You Ain’t )」をレコーディング、第二次世界大戦中の Louis Jordan は、健康上の基準から兵役を免除されたため、各地に慰問活動に出掛けていますが、そこではまさに軍隊生活を歌った「Ration Blues(配給のブルース)」や「G.I.Jive」が大ウケして米軍兵士たちの圧倒的な支持を勝ちとりました。

間に「You Can't Get That No More/Mop! Mop!( Decca 8668 )」を挟み、1945 年 4 月19日に吹き込まれたのがまさにヒット中のヒット、名作中の名作、そして Song & Lyrics by Fleecie Moore、そ!1942 年に結婚した奥さんの作品でもある「Caldonia」でございます。
もう、この曲はリッパなスタンダード・ナンバーとして、実に多くのみなさんがやっておられます。そりゃもういちいち挙げてたらキリがないくらいにね(カップリングは Somebody Done Changed The Lock on My Door )。
ここで奥さんの名前が出て来たついで、と言っちゃあなんですが、ある資料に気になる記載を見付けました。それによると、彼の私生活は(ある意味スターにふさわしく?)派手なものだったようで、しょっちゅうオンナを口説いていたんだそうです。しかも、前の奥さんと離婚する前に新しいオンナと式を挙げたり、と好き放題やってたようですねえ。それじゃあ1932年に相前後して二人の女性と結婚した、ってえのも判る(?)よな気がします。ケッキョク彼は 5 回の結婚を経験したそうです。んー、そこらヘンも大物っちゅう感じしますねえ。ま、しかし大物だからってユルされないこともあるワケでして、三番目の妻 Fleecie は、彼のそんな行動に疑いを持ち、そしてついに彼女は肉切り包丁をとって Louis を切り刻もうとしたのです。
幸運にも、彼はしばしの療養の後で回復することが出来ました。彼は、キズが快復すると、ツアーおよびレコーディングのスケジュールを前よりも精力的にこなし始めています。

1940 年代を通じて彼は実に 21 曲のナンバー・ワン・ヒットを送り出して「king of the jukeboxes」とさえ呼ばれるようになっています。そしてこの時期のナンバーに、そもそも、今回の連載(?)のキッカケになった「Saturday Night Fish Fry」も含まれておるのでございます。
長く続いた戦争で国民が「明るく楽しいムード」を渇望して来ている時代は Louis Jordan の音楽を充分に享受する下地が出来ていた、と言えると思います。レコードは記録的な売上となり、Radio と Jukebox で彼のナンバーはバリバリかかる状態となりました。さらに彼は新しい方向にも手を伸ばします。
それは「Soundies」と呼ばれる、今でいうプロモーション・ヴィデオのようなもので、短いフィルムで供給されたのです(映像もついた専用のジューク・ボックスで観ることができたそうですが、ワタクシはモチロン現物を見たことはございませんので伝聞に過ぎません)。Jordan のカンペキにセット・アップされたステージ・アクトはまさに「映像向き」だったようで、けっこう成功したみたいです。
この Soundies でフィルム業界と関係が出来たことから、映画そのものへの進出も実現しました。『Follow the Boys』、『Meet Miss Bobby Socks』、『Swing Parade of 1946』への出演がそれです。そして、それがまたレコードの売れ行きに結びつく、という理想的なリンケージが成立していた時代でした。
Caldonia に続く「Buzz Me」、「Choo Choo Ch' Boogie」、「Ain't That Just like a Woman」、「Ain't Nobody Here but Us Chickens」、「Boogie Woogie Blue Plate」、「Beans and Cornbread」、「Saturday Night Fish Fry」、「Blue Light Boogie」と続くヒットで、1940 年代は頂点に向う上昇カーヴを描いて過ぎて行きました。

でも、いわば彼もその隆盛に大いに寄与している(控え目な言いかたざんす)、と言うことが出来る次の「波」、ロックン・ロールの時代はもうすぐそこまで近付いて来ていたのです。

もう 1 月も最後の週ですね。まもなく節分でございます。立春とはいえ、こちらではホントの春はまだまだ先のこと。
でも世の中の景気と違って、こっちは待っていれば必ず春になるからいいよね。
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