Beginning?

Something New


2004-01-27 TUE.
Rock’n'Roll はいかにして生まれたのか?また、Rock’n'Roll の始祖は誰か?なんてえ起源学的視点を「ほったらかし」にして言いますが、少なくとも、この Rock’n'Roll がこの世に生を受けた時から、既成概念に対して「反抗的」な「怒れる若者たち」の存在が表面化し、Rock という精神が醸造され始めたのではないでしょうか?
いわば親の世代が慣れ親しんだ文化への「対抗意識」を鮮明に持った「音楽・美術・文芸」の台頭がそれぞれのジャンルで尖鋭化し、そして大抵はその前の世代の眉を顰めさせる・・・
音楽における Rock ってのは、「そうゆうもの」だ、という考え方があります。そうだとすると、我々が懐かしむストーンズもゼップもヴェルヴェット・アンダーグラウンドも「あの時」のロックであって、今、それらの音が「敵視(?)」し、乗り越えようとした旧来の価値観そのものが散逸してしまっている以上、もはや「ロックではない」ということになります。てなことを断言しちゃうと、おそらく非難轟々、抗議のメールや書き込みが殺到するでしょうが、「ロック」と「ロックじゃない」の境界線は時代とともに「常に」移動し続ける、ってえ捉え方も存在する、ってえことを判ってほしいのです。
新しい音が世に出るごとに、その時々の世代が、これこそ、これまでの音楽では満たされなかったなにかを持った音楽だ!という共感とともに、それを同時代のロックとして共有してきたのではありませんか?そして、前の世代の音楽を「ダサい」とか「かったるい」と軽蔑し、しかしながら次の世代の音楽に対しては、「なってない」とか「ウルサイだけ」とか「理解できん」と思ったことはありませんか?その時がカウンター・カルチャー的な意味合いでの、「ロック/非ロック」の境界線があなたの上を通り過ぎた瞬間ということになるのかもしれませんね。

もちろん「かってのロック」に価値なんて「無い」と言うことではありません。それはその人にとっては、その音楽とともに「不条理なオトナの世界」に反抗するための「武器」であり、立てこもる「砦」であり、同士を識別するための「暗号」であり、さらに心情的なものと密接に結びついた「かけがえのないもの」のハズです。
でも、ロックという一種のイノヴェーションがそれぞれの時代に「あった」ということを認識しないと、過去の「転機」も、これからの「変化」も認知できない、「ワシの時代がロックの一大転機じゃった」という(たしかにそのヒトにとっちゃそうなんだけど)自分本位な歴史観で終ってしまうんじゃないでしょうか?
てなことを長々と書いて来たのも、我々はプレスリーが登場した時の青少年とその親たちとのモノ凄〜い「落差」や、モッズ・ヘアに対する親たちの「嫌悪」、パンク・ムーヴメントに対する「警戒」など、それぞれの時代の変わり目にあった価値観の相剋を「自分の時以外は」軽視する傾向にあるんじゃないか、と思われるからです。それのどこが悪い?と言っちゃえばそれまででございますが、でも時々は、いま現在の「境界線」はどのヘンかな?と眺めてみるくらいの好奇心は持っておきたいものだなあ、と思うのですよ。

1942 年から、その Timpany Five を解散する 1951 年にかけて、Louis Jordan は実に 57 曲(!)を R&B チャートに送り込みました。「I'm Gonna Move to the Outskirts of Town」に始まり、「Let The Good Times Roll」、「Buzz Me」、「Five Guys Named Moe」、「Is You Is or Is You Ain't( Ma' Baby)」、「Ration Blues」、「G.I.Jive」、「Choo Choo Ch' Boogie」、「Ain't That Just like a Woman」、「Ain't Nobody Here but Us Chickens」、「What's The Use Of Getting Sober」、「Beans and Cornbread」、「Saturday Night Fish Fry」、「Boogie Woogie Blue Plate」、「Blue Light Boogie」・・・
この期間に稼いだカネで(ってのは単にワタクシの「下衆のかんぐり」に過ぎませんが) 1940 年代末あたりに彼は Arizona 州 Phoenix に「家」を買っています。そして Timpany Five を解散した 1951 年にはこりもせず(?) 4 度目の結婚!
この時の相手は Vicky Hayes というダンサーでした。

1950 年代の初頭まで、彼のレコードのセールスも Radio でのオン・エアも常にトップ・ランクを維持していた、と言って良いでしょう。その勢いに陰りが見え始めたのが 1953 年あたりからでしょうか(ここら、資料によってバラつきがあって、もっとも早い時期を挙げているのは 1940 年代末、としているものまであります)。
え〜、トツゼンではございますが、ここで急にちょっと時間を遡らしていただきます。1925 年 7 月 6 日、Michigan 州の Highland Park ってえとこでウィリアムとモードのヘイリー夫妻の子供として、2 才上の姉の下に生まれたビル君、父の仕事のカンケーでケンタッキーからデトロイトへと移っています。英国からの移民だった母はピアノの教室を自宅で開いておりました。でも家族はデトロイトからペンシルヴァニア州のチェスターにまで流れていった模様です。

父のほうはバンジョーとマンドリンを弾き、耳コピの才能に恵まれていた(逆に言うとワタクシ同様、譜面が読めなかったワケ)ようです。ビル君は 13 才の時にギターをあてがわれ、父からコードやポジションを学んでいたらしく、この時から彼は音楽でスターとなる日を夢見るようになったのでしょう(?)。
1940 年の 7 月、学校を卒業した彼は Bethel Springs でミネラル・ウォーターのビン詰め作業の仕事につきました。このころのペイは 1 時間 35 セントというものでした。
1943 年、彼は「Candy Kisses」という曲を初吹き込み。そっから 4 年間は C&W バンドのギタリスト&シンガーとして過ごしています。1946 年には、当時 Booth's Corner にいた両親のもとにひょっこり戻っています。着くなり母に言ったのは「俺がここにいるって誰にも言わないで」で、30 時間ブっ通しで眠り続けたんだとか・・・

てなことはどーでもいいんですが(?) 1946 年にはチェスターのラジオ局でホストを始め、同時に幼馴染みの Dorothy Crowe って女性と結婚もしています。1947 年には WPWA のディレクターになり、バンド The Four Aces of Swing を結成しました。1949 年には解散していますが、すぐに新しいバンド The Downhomers を結成し、C&W ナンバーを録音しています。でも、このバンドからは彼が抜けちゃうんですよねー。
1950 年の夏、今度は Bill Haley & His Saddlemen を結成し、Philadelphia の Ed Wilson の独立レーベル Keystone から 2枚のシングルを出しています。で、このメンツがそのまま「あの」 The Comets になったのでございますよん。

WPWA のディレクター Bob Johnson はグループ名を「Saddlemen」から「Comets」に変えるようにアドヴァイスした、と言われていますが、それは「ハレー彗星」から来た語呂合わせだったそうです。なんだかなあ・・・
ま、それはともかく、1952 年の Thanksgiving Day の直前にその名前を Bill Haley and his Comets と変えました。そして吹き込まれた「Rock The Joint」は 75,000 枚を売るヒットとなっています。続く 1953 年には「Crazy Man Crazy」がビルボードのポップス・チャートの 20 位入り。
そして 1954 年の 4 月 1 日、ビル君とメンバーの Myers は Decca の Milt Gabler のニューヨーク・オフィスに顔を見せ、契約について折衝を始めています。そこで合意したのは売上の 5% の印税、最初のロイヤリティとして 5,000 ドルを支払うこと、また、各リリース毎に各地の D.J. 2,000人にプレス・リリースを行うこと、さらに、ビルボード誌とキャッシュ・ボックス誌の両方に見開きで広告を掲載することでした。
実はこの Milt Gabler ってのは直前まで Louis Jordan のプロデュースを手がけていたひとなんですよ。
ここに Bill Haley And His Comets の Rock’n'Roll の時代が幕を開けるワケです。

1940 年代を上昇カーヴで走り抜けて来た Louis Jordan でしたが、1950 年代に入ると、その売上もビミョウに失速し始めた、と言われています。モチロン、そのすべてを Rock’n'Roll の台頭のせいに帰するのは、どうかとは思いますが、やはり時の流れを誰も止められないのと同様に、確実に世代交替は進んで行くのですね。
その Louis Jordan が Decca との契約を解いたのは 1953 年のことでした。

意外と(?)板でのアンプの話題が続いています。まったく新しい方まで登場して、この分じゃギター・アンプ・スレッドになっちゃいそ。ま、でも、ワタクシの経験したアンプなんてタカが知れてるし、しかも、フェイズ・アウト系のクリーン・トーンをメインに、ってえ「偏った」視点からだけ語ってるんで、たとえば ES-355 TDSV あたりで B.B.あたりの音をめざす、ってんならゼンゼンちゃうと思うんですよ。
とは言え、ワタシはその自分の音でしか評価いたしませんので(って B.B.の音なら?を「想像」で語るのはキケンだし無責任っちゅーもんですから)、そこら差し引いて「読んで」いただきたいと思いますです、ハイ。
シングル・コイルのフェイズ・アウトの「コツ〜ン」ってえアタックが綺麗に伸びる、それがワタクシのスタンダードでございますから。
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