Rock Around the Clock

Fallen Star


2004-01-28 WED.
さて、1953 年のビル・ヘイリーと彼のコメッツ「Crazy Man Crazy」をして Rock’n'Roll の誕生、とする説もありますが、誰もが知っているのは 1954年 4 月12日に Pythian Temple Studio で録音され、発売されるやすぐさま 75,000 枚を売り切り、さらにほぼその一年後、映画『暴力教室(原題 The Blackboard Jungle )』のサウンド・トラックとして使われたことにより全世界的に知られるようになった「Rock Around The Clock」の方でしょう。
「Rock Around the Clock」自体は 1953 年に Sunny Dae And His Knights が既に吹き込んでいたものです( 1952 年とする資料もあります)作者は Max C.Freedman と Jimmy DeKnight。ところが、この Jimmy DeKnight ってえひと、本名は James Myers、そ、Decca ニューヨーク・オフィスで密談を交わした(って人聞きの悪い・・・ )三人のうちのひとりなんですよん。バンド・メンバーでソングライターかつプロモーターってのが実態なようでございます。

てなワケで世は「あからさまに」ロックンロール・エイジへと突入する・・・ と。
しかしまあ、考えてみれば、それはなにも「この」ビル・ヘイリーじゃなくても良かったんじゃないのかなあ?だって、もう時代はこのヘンの音を受け入れる素地ができてたんですから。
この「Rock Around the Clock」、確かにセンセーションみたいなもんを起こしたと言えなくはないですが、でもそれはもっぱら映画との相乗効果と捉えたほうがいいんじゃないの?
曲をじっくり聴いてみれば判るように、そのリズムにしてもメロディにしても Louis Jordanが「とっくに」自家薬籠中のものとしてたラインで、じゃ、どこが違うか?と言うと、歌が「モロ、白人である」ってとこでしょ。これは人種差別的な意味ではなく、アメリカの聴衆、中でも若い層がそこに「新味」を嗅ぎとったのではないか、と。
ま、これはワタクシ個人の思いつきでございますから、ふ〜ん、そんな考えかたもあるんだ?程度にお聞き流しくださいませ。

ビル・ヘイリーと彼のコメッツはその後 Joe Turner の「Shake, Rattle And Roll」をカヴァーし、商業的には「ロックンロール初の」ミリオン・セラーとなり、続く「See You Later Alligator」も僅かひと月でミリオンをトッパしております。
でもその彼らはすでに 30 才のリッパな中年デブになっており、もはや「怒れる若者たち」とはお世辞にも言えない状態だったのでございます。
あにはからんや(うわっ!古語的表現!)アっという間に Little Richard や Jerry Lee Lewis、Gene Vincent、そして Elvis Presley に追い落とされ、若者の支持を失っていきます。
ケッキョク、(とくに映画とのからみで)記念碑的作品と言える「Rock Around the Clock」ですが、そこには再生産につながるようなクリエイティヴなものは殆ど「無かった」とするのは言い過ぎでしょうか?
またその後の何曲かだって、もはや誰のキオクにも残っていないんじゃないの?

一見、そんなロックンロールのブームに屈したかに見える Louis Jordan の方は、逆に名曲 Caldonia をはじめとする数々の演奏で現代にまで及ぶ大きな影響力を見せているんですから面白いですねえ。ビル・ヘイリーが(皆無とは言わないけど)その後の音楽にどんな影響を与えられたか、を考えると、この対比は実にドラマティックですらあるような気がします。

それを象徴するかのごとく、1950 年代末からのビル・ヘイリーは、ロックンロール・リヴァイヴァル・ショーに出演するのみとなっていったのでした。(ついでながら「彼のコメッツ」のほーは Comets という名前自体の版権をドラムの John Lane が持ってて、解散とともに「持ち去った」ため、ビル・ヘイリーは「彼のコメッツ」というバンドを持つことが出来なくなっております。と、これまたあらずもがなの雑知識)

その頃 Louis Jordan は Decca との契約を打ち切った後、Aladdin Records ; Los Angeles の Hollywood に本拠を置くレコード会社で、Eddie、Leo、そして Ira の Messner 兄弟によって 1946 年に設立されました。とは言っても資料によっては Ira の名前を含んでいないものもあります。当初は Philo Records という社名でした。
アメリカ西海岸、California 州の Los Angeles で Philharmonic Music Shop というレコード店を経営していた Eddie Mesner と Leo Mesner の兄弟、そして英語であるがゆえに年長なのか年下なのかがさっぱりわからない Sister、Ida Mesner はレコード・ショップの経営の他に、そこから派生して黒人社会へのジュークボックスの配置と音盤の供給も行なっていたのですが、それを通じて黒人音楽への関心が高まったらしく(つまりメスナー家は白人ね。ま、そのせいであまり書く気になれずにいたワケで)その地区ではそこそこギグを行なったりはしているもののレコーディングはしたことがないミュージシャンがかなりいることに気づき、そこにも新たなビジネス・チャンスを見て取ったのでしょう。自らが原盤のサプライヤーとなることを目指し、経営していたレコード・ショップ名、Philharmonic から採った Philo Records というレーベルを 1945 年に設立しております。

そこで最初リリースされたアーティストは Illinois Jacquet で、曲は Flying Home。

そのヒットを受けて翌 1946 年には Wynonie Harris の録音を行なっているのですが⋯
1946 年 2 月の、ラジオやテレビ・セットのメーカーであった PHILCO がそのブランド名 Philco と Philo の紛らわしさを問題として、「商標が紛らわしいので変更していただきたい」ちゅう「かなり強い要請」に対して、法廷でのバトルに持ち込むほどの「体力」は(特に相手と比べ)あるワケもなく、またそこで決着に時間を要するようなこととなると事業の停滞どころか挫折につながる、と判断して「折れる」ことを選択したのだ、としている資料もありました。
事実、もしも商標に関する法廷闘争に持ち込まれることになっていたら、せっかくのヒットとなった初回リリース、Illinois Jacquet の"Flying Home part 1/ Part 2"がもたらした売り上げが、その次のレコーディングおよびリリースの原資となる、っちゅう独立レーベルの「初速」向上に貢献することなく、お高い(?)弁護士費用などにムダに費やされてしまいますからね。
もっとも、PHILCO に目をつけられたのも「なまじ」Illinois Jacquet がヒットしたからだったのかもしれませんが⋯
そこで、最初の商標ロゴではアラジンのランプから出た煙が Philo という文字を形作っていたことワケですが、おそらくそこからと思われる Aladdin Records の名が採用されることとなりました。

その Aladdin に「Dad Gum Ya Hide Boy」、「Messy Bessy」、「If I Had Any Sense」などの Louis Jordan らしいナンバーを吹き込んでいます。しかし、それをマス・セールスにつなげるには、当時の「今日的な」テイストに欠けていたのでしょうか、Aladdin の経営陣がマンゾクするようなセールスを上げることは出来なかったようです。
そこで彼は 1955 年に RCA のごく短命だった「 X 」レーベル(フツーの検索ではまったく出ても来ません)で up-to-dated な「Rock'N' Roll Call」でチャレンジしてもいます。
しかし、それを「成功させたのは 1956 年、Mercury Records( 1945 年に Irving Green、Berle Adams、そして Arthur Talmadge によって Chicago で発足したレコード会社です。ブルースの他にもジャズやクラシック、さらにはロックンロールにカントリーにまで手を広げました。Chicago と St.Louis の二箇所に工場を持ち、自動プレスのラインに 24 時間マルチ・シフトの勤務態勢を整えて大量生産に成功し、すぐさま他の Columbia、Decca、RCA、Victor に伍するメジャーなレコード会社に成長しています。傘下には Blue Rock、Cumberland Records、Emarcy、Fontana、Limelight、Phillips、Smash、Wing などを収めていました。1961 年には、オランダ Philips との相互供給契約を締結しています。さらに Philips は、アメリカでのベースを拡張するために Mercury とその傘下のレーベルを買いとり、1962 年には、Philips がドイツ Grammophon と合併して、1970 年代の初めには Polygram となっています。あ、Phillips と Philips、小文字の「L」がひとつ多いとこで違うんざんす)における Quincy Jones との結びつきを得てからだったのではないでしょうか。
彼は Louis Jordan の素材(つまり、かってのナンバーね)を「時代に合わせて」アレンジし、Mickey Baker のリード・ギターと、Sam "The Man Taylor のエグい(?)サックスを盛り込んだバリバリの(?)「Let the Good Times Roll」、「Salt Pork, West Virginia」、「Beware」で louis Jordan を再び第一線に送り出したのでした。
話はちと脱線いたしますが、Micky Baker に Sam "the Man" Taylor と言えば、そりゃもう Screamin' Jay Hawkins でしょう!1955 年の Mercury #70549「This Is All/(She Put The) Wamee (On Me)」とかね。ま、そっちは Quincy Jones じゃなく、Leroy Kirkland のプロデュースだと思いますが。

ところで、Louis Jordan のサックス・プレーヤーとしての一面が、1957 年の The JAMF のアルバム『Man, We're Wailin'』で聴くことが出来るようです。その同じ年、Louis Jordan は生まれ故郷の Brinkley を訪れています。名誉なことに「Louis Jordan Day(!)」が制定されたからでした。

1960 年には 9 年前に結婚した Vicky Hayes と別れています。その後 1960 年代はイギリスやアジア地区のツアーなどに出ていっておりましたが、1966 年、彼にとっての最後の結婚を、これもまたダンサーの Martha Weaver としています。ま、このヘンも Screamin' Jay Hawkins と相通じるところがあるよな気がしますねえ。いわば Louis Jordan の持っていたナチュラルな「コミカルさ」を「ジョークの域」にまでダラク(?)さしたのがスクリーミン・ジェイじゃないか?ってえのは言い過ぎでしょうか?

ウチのホームページの「33333」をりっきーさんが獲得いたしました!実にメデタい!タイ焼き 50 個!・・・なんて送ったらひっくり返っちゃうだろから、なに送ろーかな、うぷぷ。

なにげなくテレ朝の旅館の番組を見てたら、いたいた作務衣を着たオヤジ、しかもソバ打って、サっと茹でて自分で運んでって、「まずなにもつけないでソバだけを」なんてヌカしてけつかる。
ウルセぇってえの!
しかも次は塩を振って喰えだあ?バカやろう、ソバはツユで喰うもんだ。
こんなカン違いオヤジが「求道者」ヅラしてるってえのはホントにムカつくなあ。
天麸羅だってそう。塩で喰おうがツユで喰おうが客の勝手ってえもんでしょ。
客が「あ、こりゃ塩の方がいいかも?」って思うよな味を出してみろ、ってんだい。
ま、あたしゃあスジ金入りのガンコな「醤油味好き」で、あの「香味成分」が無きゃイヤなんだから、天麸羅を塩で喰うなんてこと、天地がひっくり返ったってゼッタイにしませんけどね。
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