Disc Vs. Cylinder

Disc history


2004-01-31 SAT.
やがて蝋管自体の改良も進み、1902 年にはよりハードなワックスで 100 回程度の再生に耐え得るように改良された Edison Gold Molded Records なども登場しました。
Edison では円筒自体に僅かな「テーパー」をつける、つまり円錐に近付けることによって(さらにワックス自体も改良され)一体モールドの雄型(これは溝だけを考えたときの「オス」で、円筒全体は型の中で出来る、という意味では雌型になるのか?)から抜き出すことのできる技術をものにして、ある程度の(もちろんディスクに比べれば微々たるものではあるのですが)大量生産を可能にしたものです。
しかし 1906 年にはシリンダーに画期的な製品が現れます。それは the Indestructible Record Company による「セルロイド」製の管を使ったもので、蝋管と違って落としても壊れないし、その弾力性を利用して型から抜く際にも溝をナメることがなく、しかも数千回の再生にも耐える、というものでした。
この改革はすぐに他社にも波及し、まず、その技術はさっそく the Columbia Phonograph Company に買い取られ、一方の Edison も新しいプラスティック「Amberol」を開発して対抗しています。また同時に溝をカットする間隔を半分に詰めて再生時間を倍の 4 分前後にすることに成功しました。

ところで、現代の DVD、あるいはゲーム機でもそうですが、ソフトの供給が無ければ一般には浸透しません。たしかにシリンダーの Phonograph は自分でも「録音」が出来るものではありましたが、それだけではマーケットは成立しないのは当然で、そーなるといかに流行の楽曲を手早く供給するか?が戦略上、重要になってきます。
当時、New York City の Manhattan に音楽出版の業者やソングライターたちが集まった一角があり、必然的にそのようなニーズに応えるビジネス・ゾーンが興って来ました。
およそ 1885 年あたりから、その一帯は「Tin Pan Alley」(狭い地域のあちこちで、それぞれチューニングが違う何台ものピアノが、なんの防音もしていないそれぞれの「事務所」あるいは「スタジオ」で自分がいま作曲中のキーで勝手に弾かれるため、一帯では全部がゴッチャになってその不協和音ぶりはすさまじく、まるで Tin Pan ─錫鍋を叩き合っているような騒ささだったため、この名がついたのだとか)と呼ばれるようになり、「大恐慌」がミュージック・ビジネスを揺さぶった後も様々なカタチで音楽産業に関わり続ける「ソフト・メーカー」として 1950 年代あたりまで続くことになります。
その Tin Pan Alley から供給される楽曲がミュージシャンに手渡され、その演奏がシリンダーに刻まれて末端の消費者に販売される、という図式によって、それまでは「譜面」そのものの売上げしか経験したことのなかった音楽出版界も様変わりしてゆくこととなりました。

しかし 1910 年代にはそのシリンダーを後発のディスクが追い上げて来ます。
さらにそれまでシリンダーとディスクの両方を手がけていた Columbia も、1901 年に Emile Berliner の「Disc Recording」をメインに市場に乗り出してきた Victor の急追をかわすために 1908 年にはシリンダーをやめて両面レコードの「Double Sided」にスイッチしてしまいました。
初期のディスクはシリンダーの敵ではありませんでしたが、吹き込み技術の向上と、再生時の変換効率のアップによって、再生音量は次第に原楽器のそれに近いものになって行きます。

その Victor は、1892 年には the United States Gramophone Company を設立し、1894 年には、ディスクとして初の「レコード」を the Berliner Gramophone レーベルから発売した Emile Berliner のもとでエンジニアとして機器の開発に当たっていた Eldridge R. Johnson がメインとなった再生機器製造部門 Talking Machine Company が前者と統合されて the Victor Talking Machine Company となったもので、初期の the Berliner Gramophone Company ではレコード( 1897 年録音の黒人のエンターテイナー George W. Johnson の「The Whistling Coon」)の回転数が 55 rpm という、その後は消えてしまう独自のスピードとなっていたようです。
当初の Emile Berliner は Disc Records を再生する機器の商品化に際して、そのスピードをいかに安定化させるか、に立ち往生していたのですが、それを解決してくれたのが Victor でパートナーとなった Eldridge R. Johnson でした。
現代ならば多極モーターやクォーツ制御などで定速回転は容易に手に入りますが、では、ゼンマイでは?巻ききってフル・パワーの時は早いし、スプリングが緩むにつれて速度は落ちますよね?それをどうやったら一定速度で回すことが出来るのか?それが出来なかったら、シリンダーであろうがディスクであろうが「まともな」再生などとんでもない話でございますからねえ。
一般にスプリング・モーターの回転数を一定にするためには調速ガヴァナー( governor )というものを使います。
これは簡単に言うと回転する軸に、遠心力で広がる内拡子(回転していない時は重力、あるいはスプリングによって回転軸に引き付けられている)がついており、ある一定以上の速度になるとそれを取り囲むブレーキの役割をする壁に接触しスピードが落ちる→遠心力も弱まり内拡子が壁から離れる→抵抗が減ったのでまた回転数が上がる→ブレーキと、実際には接触と回転がある位置で釣り合うため「ほぼ」定速回転が得られるワケです。
ところが、常にほぼ一定の抵抗が掛かっているシリンダーの再生にくらべ、ディスクでは、円盤の外周部にあるときと、一番内側に来たときでは、円盤にかかる抵抗値が「違い」ます。ピックアップが一番外にあるときは抵抗が大きく、おそらく内外の比率は 2 倍を超えると思われるので、全体に馬力のあるメカニズムが求められます。ただ、救い(?)はおそらくゼンマイがゲンキな最初に外周から始まるワケで、これが逆だったら、もっとデカいメカニズムを必要としたことでしょう。
とゆうワケで、現代の CD は内周から外周へと進みますが、当時のスプリング・モーターを動力源とするテクノロジーからは、外から内へというあのシステムが必然だったんですね。

Eldridge R. Johnson が具体的には、どの部分をクリアして「ものにした」のかは判りませんが、とにかく、それによって the Victor Talking Machine Company は New Jersey 州 Camden に 1901 年10月に設立され、Emile Berliner の Berliner Gramophone Company 部門ではレコード盤の製造を、Eldridge R. Johnson の Talking Machine Company 部門では「蓄音器」を生産するカタチで市場に乗り出したのでした。

こうして 1910 年あたりから市場はディスクを推す Victor & Columbia 対 シリンダーの Edison という図式に変わってしまいます。
しかし Edison とてその状況に危機感が無かったワケではなく、およそ 3 年間の綿密な研究を重ねた上で、1913 年10月、ついに「ディスク・レコード」に進出し(この決定には、社の運営が息子の Charles Edison に移譲されたこともあずかっているのかもしれませんが)、the Edison Diamond Disc Record の名で、厚い盤に垂直方向にカットしたレコードと、それを再生するための Edison Diamond Disc Phonographs という機器からなるシステムを発売しています。
the Edison Diamond Disc Record は他社の機器では再生できない、っちゅう最近も「ありがち」な独善的なシステムではあったものの、これで Edison 社も「一応」ディスク市場に参戦したわけです。とはいえ、最後まで、「やだなあ、お客さん、わが社はシリンダー一本でさあ!シンパイせず買ってくださいよ!」なんてチョーシ良く売ってた(注;この部分は筆者の想像に過ぎません)セキニン上、いまさらシリンダーの供給をヤメるワケにも行かず、ケッキョク、社が消滅する 1929 年まで、ディスクからのデュープまでしながら、細々と(あ、これも想像ね)なんとかリリースしつづけたのでございました。
もともと、ヴァーティカル・カットってのは、シリンダーに音溝を刻む方法としては当然の選択だったのですが、ディスクでは Edison社のように大振幅でも吸収できる「厚い」盤ならば、たしかに音量も、またそれにつれて他の特性も群を抜いたものになります。
しかし、サイゴまでシリンダーにこだわったせいで、失地回復も遅れ、Victor と Columbia に次ぐ第三位のメーカーの地位に甘んじることとなったのでした。
その上、1914 年の一暗殺事件を契機として開始された第一次世界大戦によって Edison 社のディスク原材料の供給が途絶え、一時凌ぎに使用した雑多な材料によって「新品なのにスクラッチ・ノイズが出る」という状態になり、さらにシェアを失ったのです。
戦後すぐ Edison 社は一大キャンペーンをはり、歌手や芸人をつぎ込んで同社の Phonograph の優秀性をアピールし始めています。この当時、同社は劇場に人を集め、場内を暗転させてから幕を上げ、演奏を聴かせてから照明を点けると舞台上には Edison Diamond Disc Phonograph があってみんなを驚かせる、という演出を行って話題となりました。

この手をパクったメーカーがあちこちにいたような気が・・・
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