Various Size

Disc history


2004-02-04 WED.
マイナーなレコード会社は、ごく短命に終ったものなども含めればおそらく膨大な数にのぼるものと思われます。
およそ 1910 年代でダブル・サイドのラテラル・カット(もし、機械的な遊びなどが「無い」と仮定した場合には、ヴァーティカル・カットの方が「原理的には」優れているのです。ラテラル・カットではアームが動く同じ方向に振動するワケですから、ピック・アップ部の慣性質量で振動をダイアフラムに伝えていますが、当然、ゆっくりした振動は、アームがそれにつれて動いてしまうので「再生できない」ワケで、ヴァーティカル・カットでは、ピック・アップの上下方向は「動かない」ように固定しても構わないので、ムダ無く変換できる)に統一されました。
でも盤のサイズは実に様々で、例えばドイツの Derby では 8 インチ径ですし、イギリスの Dinky じゃ 5½ インチってのがあります。同じイギリスでも Dixy じゃ 6 インチがあるし、フランスの EDBI じゃ 9 インチなんてえのまであります。え?もちろん 7 インチもありますよ。1903 年ころにスタートしてるらしいイギリスの Nicole にあります。
逆にデカいほうは、1903 年、ドイツで設立された the International Talking Machine Company がリリースした Odeon は 1906 年にはイギリスにも上陸し、Kent 州の Crystalate で製造するようになって行きますが、第一次世界大戦前には 10¾ インチと 13¾ インチってゆうフシギなサイズの盤を出しております(この Odeon はドイツ国内では Carl Lindstrom の Parlophone、さらにそのアメリカ支社から発展して生まれた Okeh とも連携したメーカーですが、第一次世界大戦後にはそのイギリス国内の設備などが EMI へと発展して行きます)。
ところで、後のスタンダードとなる 12 インチはどっから出て来たのか?ってえと、手元の資料で見る限り、Emile Berliner の Gramophone がイギリスで 1910 年には「His Master's Voice」から「HMV」となった頃に、12 インチのシングル・サイドの盤を出していた、という記録が残っています。ま、モチロン、それ以前にどこも出していなかった、というワケじゃないと思いますが、いまのとこ判明してるのはそこまで、でございます。

さて、第一次世界大戦以前のレコード業界で忘れてならないのはドイツの存在です。基本的にはアメリカから Emile Berliner の Berliner Gramophone Company の製品が供給されたことに始まったドイツのレコード市場だったようですが、北欧系の Carl Lindstrom(時として Carl Linstrom とも表記されているようですが)が 1896 年にはドイツ国内で「Parlophon」を立ち上げています。やがてレコード盤を再生する蓄音器や、レコード自体もドイツ国内で生産する動きが出て来るようになったのが 1903 年あたりから、と言われています(最初の蓄音器メーカーは the International Talking Machine Company of Germany と呼ばれていたようです )。Carl Lindstrom はそれを支える周辺の部品工業やレコード制作にまつわるプロデューサーなどのインフラストラクチャー(?)を組織し、統合したメーカーとして Polyphon を 1908 年に設立しています。

そしてレコード部門では Parlophon や Odeon、Dacapo などという名前を使用していたようで、一部のサイトで「ドイツのレーベルである」としている Okeh については、イギリスの 20 世紀前半のディスク・レコード・コレクターの(当時の殆どのヨーロッパのレーベルの様々な仕様のディスク・レコードが集められている)コレクション・データ中にも「ドイツの Okeh」レーベルの製品は存在しませんでした。
もちろん、そこに無いからと言って、地上に「かって」存在したことが無い、と断言するものではありませんが、今のところ Okeh は Lindstrom AG(アクツィエン・ゲゼルシャフト)のアメリカ支社として派遣されていた Otto Heinmann が「アメリカで」設立した会社、と考えた方が、他の資料とも整合いたします。
ただし、戦前(第一次世界大戦のね)のドイツ・レコード業界はイギリスにまで進出し(イギリスの Parlophone や 1906 年に the International Talking Machine Company of Germany が London にスタジオを開設したことで始まったイギリスの Odeon は後に EMI に成長します)、ヨーロッパにおいてはかなり重要な位置を占めていたのですが、やはり敗戦による戦後補償の重圧などから、1920 年代はむしろイギリスの方にヨーロッパのレコード産業の中心は移っていってしまったようでございますが。

さて、しばらく「ほったらかし」にしてましたが Edison 社はどーなってましたでしょ?
例の劇場でのパフォーマンスや、大きなダイナミック・レンジを誇るブ厚い(およそ 6mm 強!)シングル・サイドのヴァーティカル・カット、回転数 80rpm はある意味「優れて」いた、と言えないこともないのですが、その再生機器もディスク・レコードの方も、すでに業界第一位と第二位の Victor と Columbia によってダブル・サイド、ラテラル・カットが「事実上の」業界標準となってしまっていた中にあっては「先細り」のデッド・エンドに向っていたのは確かで、1919 年になってもまだヴァーティカル・カットで 5 分の再生時間を確保した Boston の Grey Gull なんてえレーベルもタマに出て来たりはしていましたが、すでに大勢は決しており、その上 Radio という新しいメディアの攻勢に直面し、レコードについては Long Play と言われる、もっと長時間の演奏を可能にする技術への模索が始まり、1920 年代後半にはついに Edison の Phonograph にも、他社のラテラル・カットのディスクを再生するためのアタッチメントを供給するハメになっています。これは同社の「完全な」敗北を意味するものでした。

ゲーム機のドリームキャストがどれだけ基本的に「すぐれて」いても、シェアが取れなければ「消えて」しまうのと一緒やね。
これで嫌気がさした(?)のか Edison 社はその主力を Ediscope に向けています。これは、静止した写真とナレーションを組み合わせたもので、完成すれば、幼児教育や絵本への応用、さらにはトーキーへと拡大していく(ハズの)技術となります。
また 1928 年には同様に新分野たる Radio 受信機にも Newark の the Aplitdorf-Bethlehem Electrical Company を買収することで乗り出しました。
まず Edison 社は Radio 放送のための新システム、「long-playing discs」をもって可能になるプログラムを押し進め、Newark の放送局 WAAM は Edison 社が作り上げたそのシステム、the new Rayediphonic Reproducing Machine と、それ専用の Radiosonic records の導入を 1929 年に決定し、このシステムによる初放送が 4 月 4 日に行われました。
ちょうどこの 1929 年、Edison 社はレコード業界から「正式に」リタイアしています。工場は閉鎖され、従業員は大半が受信機の製造ラインに振り向けられ、同社の所有する原盤は Henry Ford によって買い取られ、the Henry Ford Museum のコレクションの一部となりました(原盤の中で、著作権の制限が無いものは Library of Congress のウエブ・サイトでダウンロードすることが出来るそうです)。

一方の業界トップと第二位の Victor と Columbia では 1925 年に揃って「電気的吹き込み」にシフトしているのですが、その背景には Western Electric の存在があります。その WE については明日あたり言及しよか、と思っておりますが、この「電気的吹き込み(ヘンなコトバやね)」は Victor と Columbia 両者の秘密協定で、その新技術の導入を数ヶ月間ナイショにしたのでございます。
というのも、両者とも並行して、あいもかわらぬ「アコースティカルな」レコーディングも行っていたため、そちらの売れ行きが「落ちる」のをシンパイして公表しなかったのだ、と言われております。
permalink No.650

Search Form