James Alley Blues

Richard "Rabbit" Brown


2004-02-10 TUE.
1927.3.11 New Orleans というレコーディング・データのある、このブルース、いつも(いつも?)のカントリィ・ブルースとはちょっと趣が異なっております。
まず、ヴォーカルが、やたら演出過剰っちゅうか、もったいつけてるっちゅうか、そう言うと語弊があるのですが、そう、「歌」よりも「歌詞」に比重があるような、ダレにでも聞きとれるようにハッキリと発声されているような、独特のテクスチュアを持っています。

もしかして、歌を通して当時のトピックを語り聞かせる、ある意味ニュース・ショウ的な役割を街頭で果たしていた、という部分を特に強調した歌い方なのかもしれませんね。
現に、このラビット君、他にも当時の大事件「タイタニック号の悲劇」や New Orleans の Basin Street で起きたショット・ガンによる当時の警察所長の射殺事件を歌ったり、と時事を採り上げた楽曲をよく歌っていたようです。
およそ 1900 年当時には、街頭で、あるいはフェアやフェスティヴァルの入り口、大きなサーカスの近くなどで、そのようなトピック・シンガーたちが、声を張り上げてギターをかき鳴らし、その時々に大衆の興味の赴くところを歌い上げ、チップを集めていたようですが、当然、客のリクエストに応え、どんな曲でも演奏できるようにそのレパートリィも宗教的なものから流行りのもの、アイルランドやスコットランドの古謡にヒルビリーやブルース、と多岐にわたり、それだけにあまりブルース色が強くない傾向もあったようです。
また、このような Songster たちにとっては、シンガーとしての技量より、むしろ「語り部」として、聴衆を感動させるワザ(?)に重きを置くようになるのは当然だったのかもしれませんね。
彼と親交があったとされる他のミュージシャンたちの記憶の中での Richard "Rabbit" Brown は、いつもおちゃらけていて、面白そうな事柄を扱った曲を歌っていた、といいます。
ただし、彼らが活躍できる場は「あまり娯楽もない」田舎で、しかも他のメディアが浸透して来ていない場合に限られていましたから、1920 年に始まった放送が、1930 年代にかけて次第にその受信家庭を増やし一般化して来るにつれ、あまたの事件もいち早く電波に乗って周知徹底されてしまうため、Songster の存在価値は相当下落していたものと思われます。
このラビット君の一連の録音は、そのようなソングスターの「最期の輝き」だったのかもしれません。

Richard "Rabbit" Brown は例によって、一瞬の露出の後は歴史の闇に紛れて消えていったミュージシャンのひとりです。
1927年の 3 月11日に New Orleans のガレージでチューバ奏者の Joe Haward と同じ日、Louis Dumaine とセットでの録音( 3 月 5 日の説もある。Victor 20578A。全 6 曲、 この録音を担当したのは Ralph Peer で、Victor Records では「Great Northern Blues」以外の 5 曲がリリースされています)に現れた彼は「もはや中年にさしかかっていた」という証言もあり、逆算しておそらく 1880 年前後に生まれたのではないか?という憶測がなされていますが、それを裏付ける資料などは未だに確認されておらず、決して信憑性のあるものではありません。また、その生まれた場所がどこか、もまったく判りません。安易に New Orleans の生まれ、としている資料もあるようですが、地元のブルースマン Ernie Vincent は Richard "Rabbit" Brown の録音の中に、むしろ、Louisiana 州の北部から Mississippi 一帯の特徴を感じる、と証言しています。
また「James Alley Blues」の中の一節、
Cause I was born in the country, she thinks I'm easy to rule.
俺が田舎生まれなもんだから、彼女は俺が言いなりになる、と思ってるのさ。

というところから、New Orleans のような「都会」で生まれたとは考え難い、という分析がなされているようですが、それも確証(この歌詞がマチガイなく彼自身の立場を織り込んで作られている、という証言など)があるワケではない以上、憶測の域を出ません。
19世紀末の都市への黒人の流入は、小作農の生活(物納のノルマと人種差別から来るストレス)からの解放を求めて「ともかく」都会に潜り込むような現象でしたが、もし Brown が New Orleans 生まれだったとしても、両親が移住してきてすぐ生まれたのではないか、という想像も可能かもしれません。
いずれにしても彼は 1890 年10月15日の夜に New Orleans の Basin Street で起きた警察の最高責任者 David Hennessey がショットガンで射殺された事件(犯人はマフィアのメンバーではないか?ということで容疑はイタリア系移民に向けられ、裁判の結果 6 人が無罪、他の 3 人についても差し戻しが宣告されたために暴徒化した群集が刑務所を襲い、11人が射殺及び首吊りのリンチを受けたものです)について歌った曲を扱っているので、その時点では New Orleans に「いた」のでは?という推測も出来ますが、それも反論は可能です。
一方で Brown は New Orleans の暗黒街に流布した伝承にからんだ曲も作っていたようです(ただし録音は存在していないし、当時、彼と交流があった、という他のミュージシャンも、その歌詞がどんなだったかは思い出せなかったようですが)。レストランとバーのオーナーだった Billy Phillips が Charles Harrison によって殺害された事件( 1913 年の復活祭日─ 3 月21日以後の最初の満月後の最初の日曜日、つまり、1913 年の月齢表が無いので日付は不明ざんす。おヒマな方におまかせしましょ─に起き、それが銃撃戦に発展し、ついには Storyville 一帯が閉鎖されるような一大事件になった)がそれですが、同地区が閉鎖される、ということは、そこをナリワイとしていたミュージシャンの職を奪うことも意味しており、閉め出されてリヴァーボート上に職を求めたり、あるいは北に向かうものもかなりいた、と言われています。
Brown はおそらく数々の証人たちに取材して曲想を練り上げていったものと思われます。
1920 年代にタブロイド紙が普及してゴシップが容易に日々戸口にデリヴァーされるようになる以前は、ソングスターが街頭で扇情的な事件の数々を歌にして人々に伝えていた、と言われます。おそらく Richard "Rabbit" Brown の持ち歌にはそのようなトピックがふんだんに盛り込まれていたのではないでしょうか?

とある権威筋は Richard "Rabbit" Brown が 1937年に「貧困のうちに」死亡した、としています。しかし、それを確認しうる客観的な証拠は存在せず、逆に 1927年から 1937年の間の「どの時点で」死んでいてもおかしくはない、とする見方も根強くあります。またその終焉の地も New Orleans である、とする説もありますが、これまた確証はありません。

ところで、曲のタイトルとなっている James Alley ですが、実際には Jane's Alley という、Louis Armstrong がそこに住んでいたことでも知られる「市内でも最も荒れた地域」で、警察ですらケンカの仲裁などに介入することを「ためらう」ほどの無法地帯だったそうです。
Richard "Rabbit" Brown はこの街に住みついたようですが、例の銃撃戦の後でダンス・ホールや売春宿が閉鎖されるまでは街角ばかりかナイト・クラブで歌うことでカネを稼いでいたのでしょうね。
収録アルバムは(ウチの場合、ね。たしか P-Vine でも聴けるのがあったハズ)Cream of the Crop, 1926-1942 Roots 332。

ところで資料不足をいいことに(?)勝手な憶測をしちゃうってえと、ニックネームである「ラビット」ゆうのが、時事ネタに対する感度が発達した状態を、ウサギの耳の集音能力にちなんで「耳ざといヤツ」てなことで「そうなったんじゃないか?」ちゅう気もいたします。 ⋯が、モッチロンそれって「邪推」のひとつでしかありませんね。なははははは!

permalink No.656

Search Form