You Can Make It If You Try

Sly & the Family Stone


04-02-19 THU.
えー、みなさまが「お疑い」のように、今日のセレクト、まさに昨日の Ted Jarrett とこで同名の曲が出てきたことに触発されたものでございます(ホント、単純なんだから)。
この曲が収録されているのとは別なアルバム、Dance To The Music の日本盤ライナー( 1974年 by江原一雄氏)には「スライがすなわちブラック・ファンク・ミュージックの創始者というわけではないけれど、スライ抜きのブラック・ファンク・ミュージックもありえない」という一節がありました。さよう、オリジネイターも大事だけど、それをさらにパワー・アップして「真に」イノヴェィティヴにしたアーティストもしっかり評価するべきでございましょう。

例えば「ロックンロール」ってものにしても、特許争いじゃないんだから、正確には「誰が最初か?」なんてこと、ギネス・ブックを中心にした世界観にも通じる「記録好き」には意味があるのでしょうが、実際には「synchronisity」の概念を無視することは出来ないのではないでしょうか?
これは本来、動物の行動を研究している際に浮上してきたもので、距離的な要因などから、直接、交流することによって学習したとは思えない別個の生活群に、ほぼ時を同じくして、新しい食習慣などが「出現」する現象について、最初は「あるいは」という前提つきで発想された「種々の条件が揃って行き、それがいつ起こっても不思議ではない、いわば変革への飽和点に達していれば、季節的な要因などが引き金となって、遠く離れたまったく別個の集団で、同じ変化が起きることがありうる」という考え方です。

ロックンロールについても、基本となるリズムは Boogie から来てる、とも言えますが、時代とともにそこに求めるものが変化したことから、おそらく全米各地でそれこそ「同時多発的に」ロックンロールのプロトタイプが一斉に出現し始め、そこから完成形(?)に近付いていったのではないでしょうか。
そして忘れてならないのは、レコードとして残っているものだけが「正史」ではない、ということ。
初めて録音されたロックンロールってことなら、好きなだけ「そりゃロックンロールじゃない!こっちこそ史上初のロックンロールだ!」ってやっていただいてケッコーですが、ま、仮にコイツがイチバン古い、って認定されたミュージシャンがいたとしても、「まったく、それまでには無かった新しい音楽としてのロックンロールを自分で生み出した」とまで言えるのか?(本人はそー主張するに決まってますが)録音はしてないけど、その前に同じことをやってて、あ、カッコいい!オレもやろ!なんてことがゼッタイ無かったと言えるのでしょか?とゆーワケで「最初の」なんて「お墨付き」は、逆に本質から目を逸らせることになる場合が多いよな気がいたします。ま、こゆことが判ってて、その上で「レコードになった最初は?」って行くんならいいんですが。

ところでロックンロール反応が起きる「臨界点」まで電圧を上げたのは Louis Jordan である!とワタクシは思っております。
そればかりか、その後のブルースに「明かに」それ以前とは違う不可遡的な変化を与えた偉大なるイノヴェィターとして捉えております。ま、ブルース原理主義者(まず、ブルースありき、で、スグ「これはブルースじゃない!」と言うヒトのこと)は「非ブルース的(?)」なとこが多いとして除外しようとするのかもしれませんが、それは視点が逆なのよねー。Louis Jordan という「音楽」があって、その中にはブルース的なものはモチロンのこと、ジャズ、ラテン、ロックンロール、いわゆるポップスなんてゆうものが有機的に結びついて脈動してるワケです。ブルース原理主義者がなんと言おうと、Louis Jordan はブルースにとっても大きな遺産を残していってくれてます。彼が存在しなかったら、ゼッタイ現在のブルース史は有り得なかったのですよ。

などとヴォルテージが上がり気味なのは、それ、Sly Stone にも共通するとこがあるからなんですねえ(って今度は Louis Jordan 原理主義者から、こんなヤツと一緒にすんな!なんてセメられたりして・・・ 原理主義ってのがイカンのだな、きっと)。
Sly の場合は見たとおり、かなり「いかがわしい」フェイクっぽい匂いがムンムンしておりますよね?でも、そんなキャラクターもアメリカの黒人社会の中にあって「社会的ポーズ」として「意味」があったのではないか?っちゅーのがワタクシの考えでございます。なんてエラそーなこと言ってるけど、その時代のアメリカの黒人の生活を「その中で見てきた」ってワケじゃないんで、あくまでも「想像」でモノ言ってることにかわりはないのですが。
ワタシにとって彼の音楽は、前述のブラック・ファンク・ミュージックなんてえ「ジャンル」に分類されるよなものじゃなく、あえて言うなら Louis Jordan の場合と同様に、「 Sly & The Family Stone ってゆうジャンル(?)」でございます。

試してみれば出来るよ
ちょっと強く押してみな
もすこし深く掘ってみな
プラスティックなんかにやられてちゃいけないよ


( Plastic、というコトバには日本で言う「プラスティック製品」という意味よりも、可塑性のある→権力者の思い通りになるニンゲンって意味のほうが強いのではないでしょか?)

1963年のワシントン大行進、1964年の公民権法の最終形での制定など、アメリカの人種問題が新たな展開を見せ始める1960年代後半、解放を切望するマイノリテイの側と、法制化に刺激されてより過激な抑圧行為にエスカレートしていく保守的な白人との間のストレスも逆に大きくなっていくのですが、そんな中で、その社会情勢を正面から採り上げた曲が次々と Sly の手から生まれて行きました。
1969年の Stand に収録されたこの曲は、そんな対立の構図から、もっと建設的な方向にエネルギーを注ぎ込もう、というメッセージでしょ。

この Sylvester Stewart、たしかにソングライターと言っていいのでしょうが、でも彼の作品をじっくり聴き込んでいくと、むしろ、それとは別な才能、プロデュースというよりはディレクター的な、様々なジャンルから「使える」言語を集めて来て、その組み合せで、かって語られたことのない世界を語ろうとしているように感じるのですが。
もっと「ブラック」な(?)、ブラザーたちにウケる音楽も当時からありましたが、その世界はスラングに依存したゆえに閉じられていて、非黒人にまで広がってはいけなかったように思います。
Sly の音楽は、そのコラージュ的な独特の空間構成が心臓の拍動を思わせる「根源的な」バイオ・パルスを紡ぎ出すことによって生命力に溢れ、さらに、あらゆるエレメントを自由に組み込み、共通言語化した上で「世界観」を語ったことにそのスゴさがあるんじゃないでしょか。

なんちて、そんなブンセキも白々しいくらい、Easy で、でも、ミョーに哲学的だったりするする彼の世界はなかなか一筋縄ではゆかず、その評価もズイブン幅があるようですが、やはり、彼が存在してなかったら、現代のブラック・ミュージックはまるで違った相を見せてただろうな、とヒソカに考えております。
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