Good Rockin' Tonight

Wynonie Harris


04-02-22 SUN.
聖者が街にやって来る、みたいなイントロに続きハンド・クラップをあしらった 4ビートに乗せてステディに進むナンバーですが、この歌詞がまた聞いたことある単語の羅列で、好きモノにはたまりませんね。Happy Home、Sweet Georgia Brown、Caldonia、Hoy Hoy Hoy なんてえのが出てくるんですから。
さて、この Wynonie Harris ですが、実は「あの」Screamin' Jay Hawkins に、バンドのシンガーじゃなく、ソロとしてやってったほうがいいよ、と、アドヴァイスしたらしいんですね(たぶん1953年ころのことらしいのですが)。思わぬとこで、思わぬカンケーが!

Wynonie Harris は 1913年( alt. 1920、ただし Wikipedia では 1915 としている) 8月24日に Nebraska 州の Omaha で生まれているようなんですが、あまり詳しいことは判っていないようです。
ともかく、彼の音楽のキャリアは、まずダンサーとして始まった、と言われております。1935年には、Jim Bell の Harlem Club でダンサーとして働き始め、そしてドラマーとしての役割もあったようですが、この頃、歌うことも始めていたようですね。
そして Chicago の Rhumboogie Club において彼は Lucky Millinder オーケストラに雇い入れられます。
その Lucky Millinder Orchestra で 1944年の 5月26日、彼は「Hurry Hurry / Who Threw The Whisky In The Well 」で初レコーディングを経験しました。
この「Who Threw The Whisky In The Well 」は翌 6月にはビルボードにチャート・インし、実に 20週にわたってチャートにあって、最高位は当然 1位を獲得しています。
その勢いで(?)彼は Millinder のもとを去り、1940年まで彼の住んでいた Los Angeles にあるレーベル、Philo と Apollo にソロとして吹き込むようになりました。
その Apollo からは「Wynonie Blues 」と「Playful Baby 」がリリースされ、短期間ながらチャートにも顔を出しています。ただ、商業的には充分とは言い難く、次には Hamp-Tone と Bullet (出たあ!予習した甲斐があったざんす・・・?)にも吹き込んでいますが、決定打とはなっておりません。
次に契約したのは かつての Philo から改名した(させられた? by Philco )Aladdin Records でしたが、1946年の11月には New York に移っています。そして Aladdin に 2曲を吹き込んだ後、今度は King Records と契約し、その最初のレコーディングが 1947年12月13日に開始され、ここで録音された「Good Rockin' Tonight」は翌年の1月にかけて彼の二度目の R&B ナンバー・ワン・ヒットとなったのでした。そして、それはなんと 6月までチャートに居坐ったのでございますよ。
それに続く三枚目のナンバー・ワン・ヒットは「All She Wants To Do Is Rock 」でした。さらに「Grandma Plays the Numbers」、「I Feel That Old Age Coming On 」、「Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee 」、「I Want My Fanny Brown 」などの、いずれもトップ・テン入りしたナンバーが生まれてゆきます。
これらの成功により、彼は自分の邸宅を郊外に持つまでになっていたようで、かなり稼いだんじゃないでしょか。
1950年には R&B のパッケージ・ツアーに出るようになりました。これによってさらに知名度も獲得したのでしょうか「Sittin' On It All The Time」は 3位にまで上がっています。
1951年の 7月には T-Bone や Lowell Fulson、さらに Big Joe Turner たちとのツアーを行い、またも「Bloodshot Eyes 」をチャートに送り込みました( 6位)。「Lovin' Machine」は彼の最後のチャート・イン・ナンバーとなった曲で 1952年の作品です。ここからはパッケージ・ツアーの日々が始まり(?)一度 Atco にも吹き込みもしているのですが、そいつはどうやら行方不明らしく、どうなっちまったのかナゾでございます。
こうして彼はみるみる失速し、1956年には郊外の邸宅も差し押さえられ、その後の彼はバーのマネージャーなぞをして暮らしておったようですよ。しかし、1960年には Roulette に「Bloodshot Eyes 」のリメイクも含み何曲か吹き込んでいるようですが、シングルが一枚だけリリースされただけだったそうです(それが「Bloodshot Eyes 」のリメイクかどうかは不明です)。
さらに 1964年 8月には Chicago で Chess に最後の吹き込みをしましたが、それは彼が 1969年 6月14日に死を迎えるまで、おそらくリリースの予定も無かったのじゃないでしょうか?
Los Angeles の USC Medical Center での死でした。
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