Blow Top Blues ~ Jelly Jelly

Little Ester Phillips


2004-02-24 TUE.
しっかしまあ、なんてゲンキのいい声なんでしょね。めちゃイキがいいです。
ジョニー・オーティスのヴァイヴの上で、時に語るように、でも要所要所ではちゃんと声がハネて(?)ともかく、楽しそうに歌いまくります。
まだこのころはゲンキだけでトバしてるよなとこありますが、これはこれでキモチいいんですよ。フっきれてて。
後半の Jelly Jelly なんて、ややメロディをコネくり過ぎだけど、でも、それがあまりイヤ味じゃないんですよね。
なんかタトエは変だけど、そう、一種スポーツみたいな爽快感があるっちゅうか・・・
この録音は例の 1970年夏、Monterey Jazz Festival でのライヴ、Johnny Otis Show / Live At Monterey からのナンバーで、さすが、パッケージとしての完成度が高いだけあって、演奏のレヴェルはそーとー高いです。

その Esther Phillips は 1935年12月23日の生まれですから、この時はすでに 35才でございます。ま、若いみなさんからすりゃあ、35で Little はねえだろー!なんて声もあがるかもしれませんが、なんせ、彼女、13才から活躍しておりまして、当時の呼び名がそのまま定着しておったのでしょうねえ。
Esther Mae Jones として Texas 州の Galveston に生まれ、まだ小さかったころから教会で歌うようになっていたようです。しかし彼女の両親が離婚し、Houston で暮らす父と、Los Angeles の Watts 地区で暮らす母の間を往復する生活になりました。
そして 1949年、彼女の姉(妹?)が Johnny Otis のもとに連れてゆき、そこで、この 13才の少女の歌に感銘を受けた彼は、さっそくスタジオ入りして Modern Records に吹き込ませ、さらには自らのレヴュー「Johnny Otis Show」の一行に加えたのでした。この時から彼女には「Little Esther」の愛称が冠されるようになったのです。
そして、後に The Coasters となる The Robins の一員として「Double Crossin' Blues 」を入れ、この曲はミゴトにヒットしたのでした。1950年に R&B チャートのトップにまで登りつめ、そーなると当然、後を追うように「Mistrustin' Blues 」、「Misery 」、「Cupid Boogie 」、「Deceivin' Blues 」と連続で送り出すこととなります。
しかし、ここでなまじヒットが出たのが良くなかったのか(?) Little Esther と Johnny Otis の仲がおかしくなり、結局、彼女は離れていってしまいます。
1954年には Houston に戻り、父といっしょに暮らし始めていますが、薬物中毒が彼女の活動をしばしば中断させていたようです。
1962年、彼女は Kenny Rogers によって Houston のクラブで歌っているところを「再発見」され、彼の兄弟の所有する Lenox レーベルと契約をすることが出来ました。そしてこの時に、彼女は近くにあったガス・ステーションから名を取って Esther Phillips と名乗るようになったのです。
ここで放った「Release Me 」はたちまち R&B チャートのトップを獲得、さらにポップスとカントリーの両チャートでもトップ・テン入りを果たしました。こうして第一線に復活した Esther Phillips だったのですが、1963年には Lenox が破産してしまい、そこで彼女は Atlantic へ変わります。

1965年に、イギリスのカブトムシのナンバーのリメイク「And I Love Him 」がもすこしでトップ・テンというとこまで行って、また注目され、この時は本家のお声がかりでイギリス公演にまで行ったハズです。
ただし Atlantic では彼女をもう少しジャズ寄りの線で売ろうとしていたらしく、次のアルバムではそっちに押し切ったのですが、結局それは失敗だったようで、1967年には彼女との契約を切ってしまいました。
ここでまたしても薬物依存症が出たらしく治療に入ったようですが、1969年には Roulette に何曲かを吹き込んでいます。そして再び Los Angeles に行って Atlantic と再契約を果たしました。

そして1971年には Verve や後の CTI でお馴染みの(って Bossa Nova 好きだったワタシだけか?) Creed Taylor の Kudu レーベル(そ、CTI の子会社ねん)に吹き込み、「From A Whisper To A Scream 」が 1972年にかなりのヒットとなるワケですが、その間にこの録音が入るのでございます。
この後も Kudu ではアルバムを連発し、名声を獲得、数々のフェスティヴァルにも出演する活躍でした。
1975年の「What A difference a Day Makes 」というかなりのヒットもありましたが、1977年、彼女は Kudu を去り Mercury に移籍します。が、そこでの彼女はめざましいヒットを飛ばすことなく終わってしまいました。

1984年 8月 7日、彼女は Los Angeles において肝機能不全並びに腎炎により死亡した、とされています。やはりその内臓はかなりの損傷を受けていたのでしょうね。50才を目前にしての早過ぎる死でした。
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