Willow Brook Blues

Kid Thomas

2004-06-15 TUE.



いきなりカンケー無いハナシから始めるみたいで恐縮なんですが、つい先日、昼食の時にフと見た TV で日本の某作曲家が Ray Charles とレーガンの二人の死について語っていたのですが、その口吻には驚いてしまいました。

レーガンも少数派であるユダヤ系であり、Ray Charles も黒人という少数派である、と。
そしてアメリカはこのようなマイノリティを「受け容れてきた」のがスゴい、とのたまったのですよ。いやはやアキレましたねえ。
そりゃ「逆境の中から這い上がって来て成功した者」を認める、という部分は確かにあるでしょうが、アメリカはいまだかって、その「逆境」を心底から反省し、悔い改めて黒人(や、いわゆるインディアン、さらには東洋系移民、などの「有色人種」たちすべて)に門戸を開放しよう、と「国民の総意」として行動してきたことがあったでしょうか?
なぜ「フルハウス」のようなホーム・ドラマでも、回が進むにつれ、出てくる黒人の出演者は減っていくのでしょうか?
主要な役どころには黒人がひとりもいない、ってドラマが、それもなぜ「ホーム」ドラマに多いのか?それだけ「病巣は深い」のです。
「E.R」のような社会的なドラマではそんなこともないのに、「親が子供に見せたい、と思うドラマ」には、そのようなバイアスがかかっているから、黒人が登場した回は視聴率が低下し、匿名の投書が(局ではなく)番組を提供しているスポンサーに送られて来る。

これが「マイノリティ」を尊重している「素晴らしいアメリカ」だと?
寝言もいいかげんにしてほしいな。

1962 年 9 月29日、 Booker T. & the M.G's のナンバー、Green Onion が Pops チャートの 3 位、R&B チャートの 1 位を獲得していますが、Kid Thomas のこの Willow Brook Blues は、そのメイン・フレームを Green Onion から「いただいている」と言って差し支えないでしょう。
同じようにインストで、ただし、こちらは当然、彼のハープをメインに、バックには Joe Bennett のワウも多用したクセのあるギターを配し(ピアノは Lloyd Glenn )、それでも、メインとなるテーマはモチロン Green Onion とは違っておりますから、「ちゃんと」別な曲になってはいますが、実際、この Green Onion スタイル、ってのは少なくともブラック・ミュージックを少しでもカジったことがあるひとなら、誰でもソク演奏できちゃいそな、「常識化した」普及度がありますから、このパターンを採用すればウワモノ、つまり歌やリード楽器(あ、ここで言う「リード」って、クラリネットの発音原理になってる「リード( reed;舌片)」じゃなく、ソロとったり、メイン・テーマを演奏する lead 楽器、っちゅうイミね)で個性を出せばソク一曲出来ちゃうワケでございます。
あのパターンの上で、なんだったら ♪You gotta help me・・・って始めてもいいし(細かいとこじゃ違うんですけどね)、この曲みたいに、また違う曲想で一曲仕上げることも出来るのです。

この Willow Brook Blues、1968 年か 1969 年の、おそらく Los Angeles 録音で、たぶん彼が射殺された1970 年にリリースされたものと思われます。

Kid Thomas こと Louis Thomas Watts は、1934年( alt.1935 ) 6月20日、Mississippi 州 Sturgis で生まれています。
その彼が 7 才の時に彼の両親、Virgie と VT(とあるので、そのとおり記しておきますが、どっちが母でどっちが父やら⋯それに人名で VTって?)に連れられて Chicago に移ってきます。
そのシカゴに来てから始めたものか、あるいはそれ以前からか、は判明しませんでしたが、Little Willie Smith ってえブルースマンからハープを習っていたようです。
1950 年代に入るころには Cadillac Babys や、今ではその名前さえ定かではないような幾つかのクラブなどでハーピストとしての仕事もしていました。
やがて彼の姿は Elmore James や Bo Diddley、そして時にはマディのステージ周辺でも見られるようになり、特に Little Walter がよくあるように「呑み過ぎて」使いものにならなくなった時など、彼が代理を務めたこともあった、といいます。

ただ、そのままでは彼に対する「業界(?)」の扱いが一向に変わらない、と悟ったのか、1955 年にはレコードだ!レコードを出すっきゃない!と決意したものらしく(この、レコードを出してるかどうか?は業界内では「かなり重要」みたいで、事実、もっとも多い紹介ってのが「XXX Recording Artist!! Mr.~」ってヤツでございます。XXX のとこにはレコード会社の名前が入るんですが、モチロンそれにはそれの「序列」ってもんがあるんでしょうが)いきなり King-Federal を訪ねて単刀直入に「レコード出したいんだけど」とやったらしい。
普通なら、ナニ言ってんのコイツ?顔洗って出直してきな!なんて門前払いになりそなもんですが、そのアキレるほどのノー天気ぶりに圧倒されちゃったのか、つい(?)Syd Nathan( 1904,4,27-1968,5,5。King Records のオーナーでもあったが、他にもそれに呼応したよな Queen や DeLuxe、Federal に Glory、Bethlehem に Audio Lab、Beltone などのレーベルも持っていた)の下で A&R マンとして働いていた Ralph Bass を紹介してしまった!

Ralph Bass は一方的にまくしたてる彼に辛抱強く付きあったあげく、オーディションをやってやるから、バンドで来い、と言ったのでした。そこで Little Willie Smith をドラムに据えて、ギターには(おそらく) Elmore James、そしてピアノという陣立てで再度襲来し、ウルフ・スタイルのナンバーと、もう一曲はなんと「あの」 Screamin' Jay Hawkins からいただいた The Spell ってのをやった、というんですが、時系列から言うと、Screamin' Jay Hawkins の最初の「世に出なかった」I Put A Spell On You が Philadelphia の Reco-Art Studio でレコーディングされたのが 1955 年の11月のはじめ、そして、世に出た「あの」I Put A Spell On You が New York で録音されたのが 1956 年の 9 月12日ですから、この The Spell 云々ってのはそれ以降のハナシになりますね。
結局この時のテイクは Federal 12298 というシングルでリリースされたようです。

さて、ミゴト Federal Recording Artist となった彼はシアワセになれたでしょうか?
そ、みなさまもうすうすお判りになっているとおり、レコードを出した、ってだけじゃ「あ、そう」で終っちゃうのですよ。それが「ヒット」すると扱いも変わるんでしょうが。
セールス・プロモーションをガンバってもダメなものはダメ。一方の Screamin' Jay Hawkins ときたら「あんなの」でガンガン売れてるってのにさ。

こんな行き詰まった日常にブレイク・スルーは訪れないのか?なんて彼が思ってたかどーかは「?」だけど、いささかヤケになって安食堂で 1 ドル98セントのチキン定食をガっついてるときに、フと耳に入ってきたのが Kansas 州 Wichita からヒッチ・ハイクで辿りついたらしき二人の会話でした。
そこで天啓を受けた(?)彼はその二人に話しかけ、このシカゴでいっちゃんのライヴが聴けるとこはどこだべ?ってのに、そりゃムロン Cadillac Babys さ、と吹き込み、おまけに、ワシが案内してやる、と連行しちゃいました。
もちろん、そこで見せたのは自分のバンドのリハーサルでございます。
カンドーした二人が、こんなショーをおらたちの街で出来ねえべか?と言うもんですから、そこはもう渡りに船、オレだったらこんくらい出せば行ってやってもいいぜ、なんて親切に教えてさしあげた、と。

少しして彼のもとに手紙が届き、そこには Wichita の Sportsmans Lounge でライヴをやって欲しいというオファーが書かれておりました。やったね!
ただ、この時、彼にはクルマが無かったため、そのころ彼がちょっとした仕事をもらったりしていた、ある牧師さんとこの 1949 年型 Buick を「無断で」借りて(ってフツー、これは「盗んで」と言うよな⋯)Wichita にむかったのでした。が、アクはホロビる。バンドはひょんなことから仲たがいして空中分解、おまけに Buick までが「おシャカ」になってしまいました⋯因果応報ってヤツでございますね。

それでもおめおめとシカゴに帰ってきた彼を牧師が待っていて、「なあ、ワシの Buick を知らんか?お前が出発した日に消えてるんだが・・・」、どうやら最後まで「知らないよボク」で通しちゃったみたいですが。
それでも懲りずに、その一ヶ月後、また Wichita に新しいバンドを組んで向かったのですが、今回は 1947 年製の Dodge DeSoto のステーション・ワゴンを調達しております。そのトレッドも擦り減ってツルツルになったタイヤで Ozark Mountain 越えをしたそうですから、ま、いい度胸というか、無謀と言うか。
その Dodge DeSoto はバンドの専属車としてオール・ペイントされ、彼の名前がデカデカと書かれていたのですが、そいつで走ってると、みんながミョーに注目することに気付いたドラマーが「?」と思ってよく見たら、なんと Kid Thomas と書くべきところを「o」を忘れちゃって、Kid Thmas となってたんだって。それを発音すっと「キッド・サム・アス」になって、ケツに親指のガキ(?)ってイミになるもんで、みんなギョっとしてたみたい。おバカですねえ。

1956 年あたりは Hound Dog Taylor とも行動をともにしてたようですが、この頃に彼のヘア・スタイルはトンデモなものになったみたい。そして類は友を呼ぶ、ってヤツでしょか、偶然の出会いを通して Little Richard と知りあい、これがまた彼の音楽にもかなりの影響を与えることとなりました。
結局 1958 年まではシカゴから「例の」 Wichita から Colorado 州 Denver あたりまで演奏に出かける、というスタイルで、シカゴでは Magic Sam や Otis Rush ともステージを分けあったりもしています。
おそらく 1959 年には Los Angeles に移っていたようで、そこでは Modern Records の A&R マンをしていた George Mottola によって You Are An Angel を吹き込むことが出来ました。このときのバンドの構成は、ギター二本にドラムというものだったようです。
そして彼の名を残すこととなった Rockin' This Joint Tonight も録音されました。

その後 Muriel レーベルに Tommy Louis and the Rhythm Rockers 名義で The Hurt Is On(カップリングは I Love You So )を吹き込みましたが、ほとんど放送には乗らず、パっとしなかった(ただし南部ではプロモもしてないのに割りと売れたんだって)ようです。
次いで Cenco Records のオーナーと出会ったのをキッカケにそこにも吹き込んでいます。
ここでは You Are An Angel のリメイクと、本日のブルース、Willow Brook Blues が録音され、これは後に Cenco 115 として 1970 年にリリースされた、とされていますが、この Cenco という会社そのもは間もなく立ちゆかなくなったらしく、その姿を消してしまいました。

この頃の彼はヨーロッパ、それも特にイギリスでの「ブルース・ブーム」を知って、イギリスに行きたい、てなことを言ってたようですが、現実は、ケッキョクまだ音楽だけでは食べて行けず、ビヴァリー・ヒルズの豪邸のお庭で芝の手入れをするお仕事もしておりました。
今日も今日とて芝の手入れを済ませ、仕事に使ってるバンで帰途についた彼の前に自転車に乗った少年が「飛び出して」来て・・・
この事故そのものについては「無罪」とされたのですが、この時にモンダイとなった彼の運転免許証について弁明するために裁判所に向かった彼を、死亡した少年の父親が待ちうけていて「射殺」してしまったのです。
それが 1970 年、4 月 5 日のことでした⋯

白人が圧倒的に優勢な陪審員による裁判では、この父親の殺人行為を「無罪」としてしまいました。
もし、これが逆だったら、つまり黒人少年を轢き殺した白人を黒人が「射殺」しようものなら、警察が出てくるまでもなく、自警団に狩り出され、裁判など受けるいとまもなく(受けても「死刑」に決まってますが)惨殺されてしまうでしょう。

これが、マイノリティを「受け容れてきた」素晴らしいアメリカだって?
バカも休み休み言え!
それとも、それは 1970年のハナシだから、とでも?

もちろん、アメリカにはいいところだってイッパイあります。
でも、マイノリティを「受け容れてきた」だなんて、マジョリティの「寛容さ」をエラそうに言うこと自体、自分もそっちの側だ、と決めつけてることでしょ。マイノリティの側からの視界を想像することが出来ないのなら安易なコメントはしないことです。
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