Worried Life Blues

Big Maceo


2004-07-05 MON.

この曲はもう、ワタクシの中では、「これこそ Blues 」的な、そう、いろんなブルースマンたちの分布する My Own Blues World におけるジャスト「重心点」に位置する曲と言って良いでしょう。
逆に、それだけに、なかなか語り辛い部分がありまして、なんとはなしに後まわしにして来てたんですが、実は、とっても「ディープに(?)」愛しておる曲なのですね、これが。

Big Maceo のピアノにからむ Tampa Red のギターは、Leroy Carr と Scrapper Blackwell のそれとはまた少しニュアンスが違ってて、もっと有機的に一体化してるよな気がいたしますが、別にこっちの方が「上だ」とかゆうことではありません。
そして、ここでも忘れてならないのが再び登場の Ransom Knowling のベースでしょ。
ゆったりと、ハート・ビートのようにリズムを置いてゆく地味な存在ながら、なんだか、もっともベーシックなとこでの生命感みたいなもんを司ってるよな気がいたします。

そして、こりゃもう、ワタクシなんぞがエラそうに語ることなんぞ無い、どころか、ああ、こんなふうに唄えるようになるんだったら良心のひとつやふたつ売り払っちまったっていいぞう!と思えるこのヴォーカル。え?まだ良心あるのか、って? ⋯しまった、ギターのウデと引き換えにとっくに交換しちまってたんだっけ?
しかもたいしたことない良心だったんで、ギターもこの程度だったんだな・・・なんてバカ言うのはこのくらいにして、と。
この曲自体は Sleepy John Estes 由来( Someday Baby )らしいのですが、しかし、Worried Life Blues ときたらやはり Big Maceo!これは譲れまへんなあ。・・・などとリキむこともないんですけどね。

Major Merriweather は Atlanta 郊外(ただし異説もあり、Newnan としている資料もあります)の両親の経営する農場で 1905年 3 月31日、11人の子供のうちの一人として生まれていますが、資料では彼が 11番目、とはしておりませんので、実際には長男から末っ子までのあらゆる可能性があるワケです(あ、兄が、っての、この後出てくるから長男なワケ無いですね)。
そして、どうやら成長するにつれ、堂々たる体躯となっていったようで、そこから、彼には「Big」という形容詞が付くようになったとゆうことです。
1920年には父親が銀行で仕事をするようになった(いわゆる銀行員ってヤツかどうかは判りません。農家から転職するとしたら警備関係などの部署だったのかもしれません。ま、アメリカでの銀行員の採用選考基準ってのがどんななのか判らないんで、なんとも言えんのですが・・・)ため、郊外から College Park 地区に移り、そのあたりから彼のピアノとの関係が始まったのでした。
Harvard Street にあったカフェやハウス・レント・パーティなどで演奏を重ね、おそらくこの時期の現場でのスキル・アップが彼のピアノを底支えしてゆくことになったのでは?っちゅう気がいたしますが、そこら、ワタクシの主観でございますので、鵜呑みになさらないよに。
また、おそらくこの時期に Major が Maceo となったらしいのですが、ある資料ではそのヘンを、単に訛って、ではなく、多少の悪意、からかいなどが底にあったようだ、としています。
どうも Maceo という単語がどのようなニュアンスを持っているのか、手持ちの辞書では歯が立たず、「な~にが Major じゃ!あんなヤツ Maceo でじゅうぶん!」てなニュアンスだったのか、それともなんかのキッカケで(しょっちゅう呑んでたらしいんで舌がもつれた、とか?)そう訛っちゃったもんか、どーも判断できません。真相はいかに?

やがて 1924 年には先に出ていってた彼の兄が、住むとこも仕事もある、と言ってくれたこともあって、一家を挙げて Detroit に移っています。
彼はとりあえず Ford Motor Co. に職を得て生計を立てるようになりますが、それでも乞われればハウス・パーティや Hastings Street のクラブなどでの演奏は続けていました。
そんな時、彼が演奏するために雇われた先にいた女性、Hattie Spruel と知りあい、二人は結婚します(資料では彼について「 New Husband 」と記述していますから、彼女の方は初婚ではなかったのかもしれません。ただ、そのヘンのニュアンスは英語を母国語としてないワタクシとしては「もしかしたら」って程度のものでしかないのですが)。

1941年( 1940年とする説も)に、夫婦は Chicago に移り住みます。
そして、この奥さん、なかなかのやり手だったようで、Big Bill Broonzy や Tampa Red とのコネを作ることに成功したらしく、彼の売り込みを開始しました。
彼のプレイを見た二人はその腕前に感心し、その存在を RCA のプロデューサー Lester Melrose に伝え、その甲斐あってすぐさま彼は Bluebird レーベルへの録音がセッティングされたのです。

この 1941年 6 月24日に Bluebird のレコーディング・スタジオ C で行われたセッションでは 14曲( Tampa Red 名義で 8 曲、彼名義で 6 曲)が録音され、その中の一曲、そう、まさにこの Worried Life Blues が「永遠に」彼の代表曲となったのでございます。
第二次世界大戦が終るまでに、Tampa Red とのコンビで 3 度のセッションを持ち、計 16 曲の録音をしています。しかし、ここで Musicians Union のストライキにまつわる混乱からレコーディングの機会を阻まれてしまい、やむなく彼は再び Detroit に戻り、必要に応じて Chicago へ出て来る、という生活形態をとるようになりました。

1944年にようやくストライキの混乱が収束し、Melrose の手によって 1945 年、 Tampa Red や Big Bill Broonzy との録音が本格的に復活され始め、3 回のレコーディング・セッションで 12 曲が収録されています。
ここで生まれた名曲として忘れられないのが Chicago Breakdown でしょう。
しかし、1946年、Milwaukee で彼は卒中の発作を起こし、右半身の機能障害を来たしたことによって、ピアニストとしての彼は「終って」しまうのですが、それでも右半分の鍵盤を、ある時は Eddie Boyd に、Little Johnny Jones に、そして Otis Spann によって補ってもらいながらレコーディングを続け(ただし、それとても決して容易なことではなかったようで、Eddie Boyd の力を借りた 4 曲はケッキョク Victor を満足させなかったようで、契約を解除されてしまってます。したがって Little Johnny Jones との録音は Specialty でのもの)たのですが、この三人が彼の傍らで学んだものは、後にこの三人の上でそれぞれに花開いたのではないでしょうか。

1950 年には南部諸州をツアー(!)したらしいのですが、これに John Brim が同行した、としている資料もあります。でも、そこはちと「?」だなあ。
ただ、John Brim との縁があったことは確かで、1952 年の Fortune レーベルへのレコーディングでは John Brim がギターとして参加しています(この部分、まったく異なる著述が存在し、「 1949 年には再度の発作に見舞われ、これが彼のミュージシャンとしてのポテンシャルをすべて奪ったらしく、遂に引退してしまった。」としてる資料がありました!原典は不明)。

永く続いた不摂生(特に過度の飲酒)が彼の健康を蝕んでいたようで、次の、そして致命的な発作によって彼がこの世を去ったのは 1953 年 2 月26日のことでした。

Big Maceo のセッション・ワーク、ディスコグラフィーなどについてはえどすりちゃまのBig Maceo とこをご参照くださいませ(あ、丸投げしちまった!ズルい)。
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