Sweet Home Chicago

David "Honeyboy" Edwards


2004-07-12 MON.

およそこの Sweet Home Chicago くらい数多くのブルースマンに、そしてブルース好きのミュージシャンに、さらにはブルースの「ブ」の字も無いミュージシャンにまで採り上げられて歌われ、普及し、愛され、利用され(?)、良くも悪くも「知られている」曲はないでしょうね。

そんな星の数ほどある名唱・迷唱・珍唱のなかで、いまのとこ、ワタクシがもっとも「どひ~っ!」と脱毛・・・うっぷす、脱帽した「超レイド・バック」のスカスカ&ホノボノな Sweet Home Chicago がこの Honeyboy Edwards の Crawling Kingsnake に収録されてる Sweet Home Chicago なのでございます。
およそ、ハードにやればどこまでもハードに、ヘヴィーにやればどこまでもヘヴィーに、ファンキーにやればこれまたどこまでもファンキーになる Sweet Home Chicago ってナンバーなんですが、こいつを、本人としちゃあ、そんな意識もなにも無いんでしょうが、もう思いっきりホンワカと、モロ脱力系で歌ってくださいます。
特に California って歌詞のとこで「~にやあぁ」ってちょびっと節を回すんですが、いやあ、味があるというか「参る」というか・・・

でもね、以前青森に来たときに、楽屋でお話しをしてみても、ホントにマイルドなお人柄って感じで、天才的ミュージシャンってのが持ってることが多い、「諧謔的なとこ」や「意地悪そーなとこ」、「ピリピリした感じ」やら「人を見下したとこ」(ま、ダレとは申しませんが、スゴ腕ではあっても、ホント、実際に会ってみるってえと、ちょと気に障るとトツゼン怒り出しちゃうこれまた「ロクでもないクソジジイ」なんてのがいますからねえ。ダレとは言いませんが。がははは!)なんて全然ない、おっとりとした丸みのある性格に感心したものですが、だからこそ、日本からフラっと訪ねてった豊藤ずんずクンをやさしくもてなしてくれたりしたんでしょーね。
まこと、そのトゲの無い人となりが、そのままこの曲のノド越しの良さ(つーか、「無さ」といったひともおりましたが)につながってるんじゃないでしょか。

どうせ、いつかは採り上げなきゃな、と思ってたこの Sweet Home Chicago でございますが、そんならそれで、思いっきりみなさまの期待を裏切る(?)セレクトを、ってなワケで、ご存知の方ならば、思わず苦笑されるやもしれぬ、この選択となりました。
実はこの Honeyboy Edwards も多少、ワタクシの苦手としております、語尾を伸ばす歌い方をいたしますのですよ。でも、フシギなことにこのひとの場合、それがあまり不快じゃないんですね。声質によるものか、全体の脱力感によるものか、その部分があまりプレゼンスが無い、ってのもあるんでしょうが、ま、非科学的っちゅう非難をおそれずに、感覚的なことで言っちゃえば、彼の「お人柄」ですかねえ?

David Edwards は 1915年 6 月28日、Mississippi 州の州都 Jackson の北北西約 180km ほどに位置し、隣接する Arkansas 州の Little Rock からは南東にほぼ 200km、さらに Tennesse 州の Memphis からは南南西に同じく 200km ほど離れた(つまり、左に Little Rock、右に Memphis を置き、う~んと下に Jackson を置くタテ長の逆三角形の中にある)町 Shaw で生まれています。
Shaw は 2000 年の国勢調査では人口 2312 人、うち白人は 7.31% に過ぎず、92.8% が黒人となっています。
総人口の 41.3% が必要にして充分な生活水準以下のレヴェルにある、とされていますから、あまり「豊か」とは言えないようですが、1915 年当時の資料は発見出来なかったので、彼が生まれたあたりの町の様子は判りませんでした。

Tommy McClennan や Robert Petway を聴くことでギターを学び、やがて 14 才になるころには Big Joe Williams とデルタ各地のジューク・ジョイントなどに出演するようになっていたようです。
さらに 1932 年にはどうやら家族のもとを離れ、各地を旅して歩いたらしく、おそらくこの時期に南部諸州で Robert Johnson や Big Walter Horton、Yank Rachell などとの付きあいを持ったものと思われます。
それによって、Honeyboy Edwards は Robert Johnson につながる重要な「リンク」として評価される存在にもなりました。しかし、Johnny Shines の例でも同じですが、それによって逆に本人の個性が歪められてしまうケースも多く、Robert Johnson の影ばかりを彼らの中に見ようとする(キモチは判らなくもないけど)のは、むしろマイナスに働くことのほうが多いように思えます。

1942 年、Alan Lomax によって Honeyboy Edwards は Library of Congress のフィールド・レコーディングに収録されました。この時は 15 曲が録音されています。
そして次に彼が録音したのは、1951 年の Houston で、ARC Records にWho May Your Regular Be などをレコーディングし、1953 年には Drop Down Mama を残しています。
この前後には、旅をメインに、時として録音に現れる生活だったようですが、1950 年代半ばからは Chicago に腰を落ちつけて活動をしています。
Chicago での彼は小さなクラブに出演し、また日によっては街頭で演奏し、さらに色々なレーベルにレコーディングという生活だったようで、Johnny Temple や Floyd Jones、そして Kansas City Red(このひとについちゃまだ資料が見つかってません)などと活動をともにしていたようです。
やがて 1960 年代の半ばからは Adelphi / Blue Horizon などへのレコーディングやフェスティヴァルへの出演もするようになり、さらに 1970 年代以降はヨーロッパや日本などへのツアーも行われました(それで青森にも来たのね)。
現在でも、ベーシックなデルタ・スタイルのカントリー・ブルースの「生きた化石(?)」扱いで珍重されてるみたいですが、そんな扱いは彼のもつホノボノとした魅力を歪めてしまうんじゃないか、とちょっとシンパイ。
1998 年には自叙伝、The World Don't Owe Me Nothin' を刊行し、同名のアルバムもリリースしています。

なんだか、カントリー・スタイルでの演奏ばかりを求められるみたいですが、決してバンド・スタイルが出来ないワケじゃありません。
現に、あの Carey Bell が一時、Honeyboy Edwards のバックでベース(!)を弾いてるし、1979 年には Floyd Jones、Sunnyland Slim、Big Walter Horton などでセッションもしてるんですよ。
でも、どーやら、そんな Honeyboy Edwards は「求められてない」よーで、やはり、ギター一本でとつとつと歌って欲しいんでしょね。

言わばアメリカじゃ「ブルースの人間国宝(?)」扱いらしいですから。

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