Memphis, Tennessee

Chuck Berry


2004-07-17 SAT.

Memphis, Tennessee?おいおい、それこの前やっただろ!と突っ込まれるのはごもっとも。
実は、その続きを書くハズが、なんの気なしに次の日、Hound Dog Taylor に行っちゃったのよねー。読み返してみると、Alan Freed のことなんかにスペースをとられて、本筋じゃあ、まだ Maybellene がヒットしたとこまでしか行ってませんでした。
いけませんねえ。
せめて、その日、採り上げた表題曲のリリースまでは持ってかないと!
っちゅうワケで、危なくそのままほったらかしになるとこだった Chuck Berry の「その後」でございます。

─さて、CHESS から依頼されたシングル、Chuck Berry の Maybellene を自分の番組で二時間連続(!)でかけ倒した Alan Freed の功績もあって、Maybellene のセールスは 100万枚を超え、とーぜん R&B チャートの No.1、全体でも 5 位にまで駆け上がったのでした。
ところで、この曲の版権所有者として、Alan Freed の名がクレジットされており、だから必死こいてヘヴィ・ローテーションにハゲんだんだ、という説がありますが、たぶんホントでしょう。
おそらく、そこらは Leonard Chess と彼の間に「密約」が取り交わされていたハズ。
それによって Chuck Berry の取り分が「おおいに」減じられたことは疑いなく、この一件と、さらにもひとつ、初期のロード・マネージャー Teddy Reig が「上がり」をくすねていたことに気付いたこともあって、彼はそれ以降、「他人は信用出来ない」という哲学を根底に据えたように思われます。ま、おかげで対人関係において様々なトラブルもあったようですが。

1956年の 5月には Roll Over Beethhoven が Hot 100 の 29 位に上がりましたが、続く Thirty Days や No Money Down、 Too Much Monkey Business に You Can't Catch Me などは明らかに「失速気味」で、最初のヒットである Maybelle を凌駕する作品はなかなか生まれませんでした。
しかし 1957 年 3 月にリリースされた School Days はチャート 5 位まで登りつめ、それによって、その年だけでも、一挙に 240ヶ所でのワン・ナイト・ショーの仕事が転がり込んで来たのです。
以後、ほぼ 2 年半に渡って彼の送り出すヒットの数々─1957 年の Oh Baby Doll( 57 位)、Rock and Roll Music( 8 位)、1958 年の Sweet Little Sixteen( 2 位!)、Johnny B. Goode( Good じゃないぞ!8 位)、Carol( 10 位)、Sweet Little Rock and Roller( 47 位)、Merry Christmas Baby( 71 位)、1959 年の Anthony Boy( 60 位)、Almost Grown( 32位)、Back in the USA( 37位)、ただし例外もあって、1958年の Beautiful Delilah だけは Hot 100 に入ることが出来ませんでした。─が、さらにはそれらと並行して Alan Freed の手によるフィルム、Rock, Rock, Rock( 1956 )、Mr. Rock and Roll( 1957 )、Go, Johnny, Go( 1959 )と連動して、彼の人気を不動のものとして行きました。

ところで、1959 年の Back in the USA( Chess 1729 )、このシングルの B-Side に収録されていたナンバーこそが表題の Memphis, Tennessee なのでございます!
良かったあ、やっと、ハナシが追いついたよ。
ま、ついで(?)だから、彼のことをも少し・・

1957 年には Irving Feld のブッキングした全国 75 の都市でのコンサート・ツアーも行われます。
これは単発の仕事としてのワン・ナイト・スタンドとは異なり、各種スタッフからバッキング・メンバーまでをトータルでパッケージングした大掛かりなもので、これこそが「全国的スター(?)」の証なのですねえ。
1958 年には新参の Buddy Holly を迎え、Big Beat ツアーを行っています。
ただし、このツアーは例によって Alan Freed が一枚噛んでいたワケですが、Freed が Jerry Lee Lewis をも、ツアーに加えたことで、きしみが生じ始め、ついには Boston での公演中に客席で対立するファン同士が乱闘し始め、州警察が介入する、という事態が発生してしまいました。
この時、取り調べの際に誘導され、Freed は Chuck Berry の言動に、暴力を誘うようなものがあった、と発言したことにより、彼と Freed の縁は切れることになります。

それに先立つ 1957 年の 4 月、彼は Missouri 州 St. Louis の 50km ほど西北西に位置する Wentzville に 30 エイカーほどの土地を買い、翌 1958 年の春には自分のクラブ、Club Bandstand も St Louis の劇場地区にオープンさせました。
しかし、このクラブの周辺は富裕な白人層の生活圏であったため、官憲が閉鎖を命じるチャンスとなる「スキャンダルの発生」を待つ状態でもあったのです。

その機会は 1959 年の 12 月に訪れました。
彼は公演先の Texas 州 El Paso で Janice Escalanti という Arizona 州 Yuma から来たアメリカ先住民族(いわゆるインディアンですな)の少女と出会ったのですが、彼女を Club Bandstand で働かせることになって St. Louis に呼んだのですが、二週間後、彼女は地元のホテルから Yuma の警察に帰りたい、と助けを求めました。
これが「道徳に反する目的で、未成年の女性を州境を越えさせた」とかゆう(?)罪に該当したらしく、二審では三年の刑期と罰金 1 万ドルが課せられてしまったのです。
1962 年 2 月19日、彼は収監されました。

その不在中の 1963 年 3 月、彼の Sweet Little Sixteen は the Beach Boys にカヴァーされ、あのあまりにも有名な Surfin' USA となったのです。さらにイギリスでも the Rolling Stones が彼の Come On 、Carol などをカヴァー。そして彼がようやく赦免される 1963 年10月18日の直前には、ロンドンの Palladium でマッシュルーム・カットの四人組がこれもまた彼の Rock and Roll Music に Roll Over Beethhoven で場内を湧かせていたのでした。
本人がまだ獄中にあったこの時期に、彼の(カヴァーも含む)楽曲はイギリスのチャートを賑わしていたワケです。

いわばオリジネイターである彼にとって、それらのカヴァーは「幸運」だった、と言えるでしょう。
1964 年の 2 月から 1965 年の 3 月にかけて、Nadine ( 23 位)、No Particular Place To Go ( 10 位。この曲はイギリスでの彼の最大のヒットとなり、1964 年夏にチャートの 3 位まで上がりました)、You Never Can Tell ( 14 位)、Promised Land ( 41 位)、と復帰後の彼は順調にヒットを出して行くのですが、Top 100 にはいったのは、Dear Dad ( 95 位)が CHESS での最後となります。

1960 年代半ばからのブリティッシュ系への流れ、さらに西海岸からのサイケデリック・サウンドなどの勃興に伴い、従来のアメリカン・ミュージックが変化していく時期を迎え、彼の周辺もまたその波に洗われてゆくことになったのでした。
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