I Don't Know

Willie Mabon


2004-08-05 THU.


Blues After Dark の HP の Voodoo Cafe でもチョロっと Screamin' Jay Hawkins による I Don't Know を取り上げておりますが、もしかすっと、みなさまに一番の馴染みは案外ブルース・ブラザースのかもしれませんね。
あるいは現在来日中の James Cotton か?ま、ワタクシあたりは 1977 年12月12日の Eddie Taylor Live In Hirosaki における Oddie Payne Jr. の快演(怪演?)が印象的だったのでございますが、それはみなさま聴いておられないでしょから(ねっ?)、言ってもせんないこと。

ただし、この曲、この Willie Mabon がオリジナル、と思っておられる方も多いでしょうが、実は 1938 年(諸説あって 1937 年とするものから 1939 年まで)に Cripple Clarence Lofton* によって吹き込まれたものをソースとしてリメイクされたものなのです。それはその歌詞を見たらどなたにもナットクいただけるハズ。ま、著作権法に触れそうなんでここには抜粋たりとも載せませんが、興味がおありのかたは http://www.luckymojo.com/bluesidontknowlofton.html をご覧になってください。

*Cripple Clarence Lofton ─ 1887年 3月28日 Tennessee 州 Kingsport 生まれ。"Cripple"という(肢体障害者を意味する)のは生まれついての(あるいは出産時の事情から、とも言われる)脚の障害だったらしいのですが、それでも、彼は素晴らしいタップ・ダンサーでもあったそうで、ピアノを弾きながら脚で「踊り」、唄い、M.C.もこなし、スタンダップ・ジョークまでこなしていた、という多才なプレイヤーでもあったようです。
おそらくテント・ショウで鍛えられたと思われる彼のワザは 1920 年代の Chicago において早くも知られるようになっており、1930 年代には Big Apple という名の自身のクラブを持つまでになっていました。
1940 年代には Gennett や Vocalion などにもレコーディングをしていますが、ブギウギ・ブーム(?)の終焉とともに早めのリタイアを決め込んで、1957 年 1 月 9 日に脳血栓で死亡するまで Chicago で余生を送った、とされています。


ま、それはさておき、一応、この Willie Mabon の I Don't Know があったればこそ(?)愛唱歌として数々のミュージシャンにも採り上げられるようになったのも事実でして、1952 年10月、Chicago で Parrot に吹き込んだこの曲は、同年11月に Parrot 1050(カップリングは Worry Blues。後に Collectable COL 034587 として市場に出回っているものはカップリングが Willie Mabon ではなく、the Marathons の Peanut Butter。なお、蛇足ついでに、同時に吹き込まれた Willie Mabon の See Me Cry と L.A. の二曲は結局リリースされなかったようです)としてリリースされるや、たちまち R&B チャートの 1 位を獲得し、そこから実に 15 週にわたってチャートに居続ける大ヒットとなったのでした。

Willie James Mabon は 1925 年の10月24日、Tennessee 州 Hollywood で生まれていますが、もちろん映画マニアが真っ先に連想するであろう、あのハリウッドではございません( Hollywoodって、どうやらアメリカ国内に 40 ヶ所ほどあって、かなり「ありふれた」地名みたいです)。始めはハープやギターもやってた、と言う説もありますが、手のケガ(ドアに挟まれたとか)のせいでギターをあきらめた、なんて、ギターは弾けないけどピアノは弾ける、っつーケガっちゅうのは、一体どんなものなのかちょっと想像できませんねえ。
ともあれ、16 才ではそうとうピアノが弾けるようになっていたらしく、1942 年、一家で Chicago に移り、それからハープも吹くようになった、という説もありまして、そこらかなりな「差」でございますが、ま、とりあえずは彼の演奏活動上でさほど「ハープ」が重要な位置を占めているワケでもないんで、どっちでもいっか?⋯なんて言うとハーピストのみなさまからお叱りを受けるかも。

ところで 1942 年といえば、まさに第二次世界大戦の真っ最中でございます。
Willie Mabon も海兵隊として二年間の兵役を送ったとされてるのですが、除隊したのが 1945 年、としている資料がございますので、大戦末期をなんとか無事に乗り切ったもののようです。また、ハープを Chicago 以降、とする説では、この海兵隊としての二年間、おそらく、もっとも手軽に持ち運んで、どこででもエクササイズできた唯一の楽器としてハープと親しんだのだ、という考察も「一理ある」とは申せましょう。
Chicago に戻ってきた彼は 1947 年にギターの Earl Dranes** とともに the Blues Rockers を結成し 1949 年には初録音をしています。また彼は単独でも J.O.B.に吹き込んでいるようですが、そちらは Apollo からリリースされたようです(未聴)。

**Earl Dranes ─ 通常ギターとして知られ、1954 年 8 月 9 日に吹き込まれた James Banister and his Combo の一員として参加したりもしていますが( James Banister はドラマーでかつグループ・リーダー&ヴォーカリスト)、一連の Aristocrat および CHESS への the Blues Rockers のレコーディングでは、Earl Dranes; Bass となっています。
1949 年の Trouble In My Home と Times Are Getting Hard は Aristocrat 407 として、また翌1950 年 3 月 5 日に録音された When Times Get Better(たぶん前年の Times Are Getting Hard に対するセルフ・アンサー・ソング?)と Blue Rocker's Bop は Aristocrat 415 として、Little Boy, Little Boy と My Mama's Baby Child は CHESS 1531 としてそれぞれリリースされています。その時のメンバーは、ヴォーカルが James Watts、ピアノはモチロン Willie Mabon で、ギター Eddie El、ベースとして Earl Dranes、そしてドラムは Dizzy Pitts あるいは Duke Tide となっています。
また、James Banister and his Combo のこの States へのレコーディング・セッションにはハーピストの Alfred "Blues King" Harris も参加していますが、普段 James Banister はハープではなくサックスを入れていたそうです。


また、資料によっては Lazy Bill Lucas も the Blues Rockers に参加していた、としているものもありますが、少なくとも初期のレコーディング・データ上では彼の名は出てきていません。
ただし、クラブなどでの演奏には加わっていたのかもしれず(あるいはたまたま、資料に遭遇することが出来なかっただけ?)、それを否定するのは難しいでしょうが。

そして 1952 年、Al Benson の Parrot に吹き込んだこの I Don't Know はすぐさま R&B チャートのトップに躍り出て、そしてすぐに(あまりアテにならない AMG によればその 8 週間後となってますが、当時の Checker 1050 のシングルの一部に、Parrot 1050 の「上に」Checker のセンター・レーベルを「貼った」ものがある、と言われておりますから、実際にはもっと早い時期に売られたのでは?っちゅう気がいたしますねえ。AMG を盲信しちゃいけません!)CHESS に売られました。
翌年には二匹目のドジョウを狙った I'm Mad もそこそこヒットいたしております。
およそ、この時期の彼はソング・ライターとしての才能を発揮していた、と言うことが出来るでしょうが、面白いことに the Blues Rockers 時代のスタイルとは袂別し、バンドにギターをいれてないんですね。
やがて 1956 年に Leonard Chess が亡くなると彼は Federal Records に移籍。以後 Mad、Formal、USA といったレーベルを渡り歩きましたが、この期間にはローカルなセールスをたまに上げたものもありましたが、さしたる活躍はしていません。

その彼も 1972 年に Paris に移住し、以後 1985 年( 1986 年としている資料もあります)4 月19日に死亡するまで、主にヨーロッパを安住の地として演奏活動も行っていた、と言います。
permalink No.836

Search Form