強く儚い者たち

2002-07-06
だいぶ前に録画して、そのまま忘れていた「Cocco」の LAST DAYS のヴィデオ(テレ朝 )が出てきました。
TV 番組への初出演から最後の出演までを追ったものですが、何故、この希有な才能が、突然、彼女を愛する聴衆から「取り上げられ」てしまわなければいけないのか、ついに説明するものは見い出せなかったのです。
ただ確かなことは、ひとつの奇跡が終わった、あるいはまた潜伏してしまった、という事でしょうか。

最近よく、去っていった者たちを憶います。
命を終えた者だけではなく、静かに「表現者」のフィールドを立ち去った者たち。
絶頂期に去ってゆくもの、いつのまにか消えてゆくもの、そのフェイズは様々ですが、そこに残されたこちらの方にむしろ「虚しさ」があるように思えるのは何故でしょう?
シーンの中で「輝き続けている」者の足元に潜む「空虚さ」に気付いてしまっているからではないでしょうか?
かっては、シーンに残っている者にこそ、「栄光」も「正義」もありました。
しかし今、はたしてそれが「価値ある」事なのか、冷静に見つめ始めている人たちが増えているように思います。
歌、あるいは音楽というものを完全な消耗品としてリリースし続ける、「企業」としてのタレントたち。
そこに、あの人間の存在それ自体に直接関わって来るような Cocco の「うた」を同じように流してしまおうとする鈍感さ。

この世界は決して「消費者の論理」のみによって動いているのではない。
もしそれを無視し、創造者の意志が、また、創造者の自由が損なわれるのであれば、作品の流通を拒否することもひとつの選択ではありえる。
しかし在京キー局が、番組でひとことオーディションを呼びかけるだけで、すぐに何万人もが集まって来る、この日本の音楽市場ってヤツは、今後もさらに経済的側面を重視しつつ空疎化を続けるんでしょうね。
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