A Man and the Blues

Buddy Guy


2004-08-26 THU.
ひさしぶりに「こってこての」スローを聴きたくなって選んだのがこれ。
Buddy Guy のストラト(あ、Guild のセミアコのほーかもしんないけど⋯)がナメシ皮のような質感で探るように忍び込んでくる(?)。
バックにはゆっくりとしたウォーキング・ベースが徘徊し、あまり「重く」はない、ま、時として「コドモっぽい」(これ、バカにしてんじゃなく、Otis Spann の「持ち味」ですからね。そこが「いい」ワケです)ピアノがコロコロと遊びまわり、独特な緊張感を持った空間に、あのお馴染みの、決してウマいとは言えない、でもワタシはケッコウ気に入ってる Buddy Guy のまるで語りかけているような歌がしみ込んで来る・・・

近年、とみにその日本でのライヴが(フザケ過ぎ、だの、一曲を最後までやんない、など)評判ワルい Buddy Guy ですが(ま、それについちゃ後で触れたいと思いますが)、この、いわゆる Vanguard Years は、そんな非難を口にする人たちにとっても「これぞ Buddy Guy!」というスタンダードとして君臨しているのかもしれません。
いわばコール&レスポンスを自己完結させる手段としての、歌に対するギター、というものの存在から、これはたぶん長年、Junior Wells のバッキングで培われたものなんじゃないかと思うんですが、ギターというものに独自に「語らせる」、新しい地平へと踏み出した Buddy Guy の、ファンにしてみれば「理想の Buddy Guy(?)」がここにいる、と。

もちろん、セッション・ギタリストとして、そのギターを磨いていった人はもっといます。
でも、その先に Hubert Sumlin や、この Buddy Guy のように「あっ、このギターは!」と言われるだけの「完成された」個性を構築できたものは決して多くはないし、さらに、それがブルースのみならず、ロックの聴衆にまで熱く支持された、という例は稀でしょう。

しかし一方では、そのギターの比重の大きさから、歌はイマイチ、などと軽視されてきたのも確かなようで、大半の彼のファンは、歌にはさほど期待していない(!)というのも事実。
ま、ワタクシにしてからが、Albert King でブルースの世界に入り、さほど間を置かず Buddy Guy と遭遇してしまったことから、ギターでここまで出来るのか!という驚きとともに彼にロック・オンしてしまったようなものです。
ま、そんなことを言うと、それだったら XXXのギターのほうがスゴいぞ!なんて言う方が必ず登場しくさるのでございます。
ったくも〜判っちゃないなあ。Buddy Guy のギターは「違う」んですよ。
逆に言うと、その違いが判るひとだけがファンになるのかもしれませんね。そこが判らないよなひとは無明の闇のなかを永遠に彷徨ってたらよろし。

彼の近年の日本でのライヴにしたところで、どれ、どんなライヴやってるのかな?なんてれーせーなカンサツをしたら、「マジメにやれ~っ!」と言いたくなるのかもしれませんが、ファンにしたら先刻承知、これでこそ Buddy Guy ってなもんですから、これでいいのだ!いや、こうでなくちゃ来た甲斐がないのだっ!

なまじ、アタマでっかちだと「ブルースとは」なんて構えた聴き方してるから楽しめないんでしょね。
「ブルースとは」なんてホザいてるのは、たいてー、自己正当化やコンプレックスの裏返しだったりしますから!
BLUES という枠があって、その中にこの人は入れていい、コイツはダメ、なんて教条主義的に決めつけるってのは、なんか(それって「音楽」じゃないよな気がするけど)の研究にはそれでもいいのでしょうが、聴いて楽しい・キモチ良くなる・カラダが動き出す、なんてゆー本来の「ミュージック」とはカンケー無い次元のハナシでしょ。
タマにいますよね、えっ?どっからそんなアホなことを?っちゅーヨタを信じてるひと。
曰く、ブルースでは踊れない・・・きちんとした服装のひとはきちんとしたブルースを演奏する・・・まだまだあるんですが、そんなの羅列してると、書いてるほーも不快になってきちゃうからヤメましょ。

勝手な思い入れでブルースを決めつけるのはカンベンして欲しい。
ブルースは時代とともに変化してくのは「活きている」音楽だから「当たり前」なのに、それを認めず、せいぜい 1970 年代までのシカゴ周辺のブルースだけを聖書、あるいはクルアーンのように尊重し、それ以降のサウンドを認めないファンダメンタリストたち。
そんなだから、近年の Buddy Guy にたいする風当たりも当然強くなるんでしょね。
もちろん、1970 年代までのシカゴ周辺の音をそっくりそのまま継承しよう、ってんなら、その文化財保護活動的な存在価値は認めます。でも、それってアーティストじゃなくキュレーターですね。判り易く言えば、画家じゃなく美術館員。そのやってることはゲージュツやおまへん。関連産業(?)ではありますが。

ま、だからコピーなんてヤメなさい、っちゅーワタクシの持論にもつながるのでございます。
ありし日の某ブルースマンのプレイを「語りベ」みたくそっくり写してみたところで、それは「保護」にゃならないし、むしろハッキリ言って「冒涜」以外のなにものでもな〜い!
記録ってんなら「レコード」やら「フィルム」のほーがより正確に残してくれるんですから、もーいい加減に猿マネはヤメろや。

それにしても、Buddy Guy のライヴでの姿勢をとやかく言う前に、自分がそれ以上の客を集められる、いえいえ、Buddy Guy も「聴きにくるよな」ブルースマンになってみなはれ。

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