Oke-She-Make-She-Pop

Joe Turner


2004-08-30 MON.
もともと自分がシャウターとはかなり遠い唄い方なせいか、いわゆるブルース・シャウターなんてえ方々にはいささか冷淡なとこがございまして、この Big Joe Turner( the World's Greatest Blues Shouter なんて称号まで奉られておるようで⋯)にも、「敬して遠ざける」みたいな扱いだったのですが、そんな彼のナンバーでも、さほどシャウトが気にならないナンバーもあるワケでして、今日のもそんな中のひとつです。

ピアノを前面に押し出した、ブラスも入ったスモール・コンボをバックに⋯なんて言い方でも判るよに、いささかジャズ臭いのがナンですが(どこがジャズ臭っ!の判断基準かってえと、ワタクシの場合、ギターを聞きますねえ。この曲みたいに、一本調子なリズムをメインに、タマのリフでも、音がシャープじゃなく、欲求不満になりそな「例の」ジャズ・ギターならではの音!ホント、クレジットにそう書いてあるの見なきゃ、Elmore が弾いてるなんてゼッタイ思わないよね。あ、ハナシはゼンゼンちゃいますが、先日、とある HP で、「ギターで一番エラいのがクラシックで、次がジャズ、そしてブルース、その下にロックなんて序列をつけるのなんてバカげている」ってのを見て、うへ~っ!そんな序列つけてるバカがいるのか!と驚いちゃいました。他はいざしらず「ジャズ・ギターがブルース・ギターよりも高度である」なんて信じてるよなヤツにゃ、なんのジャンルだろうとロクなギター弾けるワケないやね)、なかなか滑らかな、でもやはりネがシャウターだけあって「朗々と」豊かな声で歌い上げて行きます。
リズムも基本的には Boogie なんでしょうが、もっと 4 ビート寄りな、かといってシャッフルでもないシンプルな、ま、悪く言えば「単調な」もので、踊れないこたあないけど、ヒワイなグラインドとかが似合わなそなおジョーヒンさがありますねえ。
ボール・ルームとかで「紳士淑女」がダンスあそばされるのに向いてますが、南部のジューク・ジョイントやランバー・キャンプなんてワイザツなとこにゃ合いそもないな。

なんてことはさておき、後年のジョニー・オーティス・ショーでの「演出たっぷり」の唄いっぷりと比べると、とってもストレートで(とは言っても、もって生まれたキャラクターはそちこちに顔を出してはいますが)遥かに好感が持てます。

Joe Turner は 1911 年 5 月18日、Missouri 州の Kansas City で生まれました。
彼がまだ 4 才のときに父親は鉄道の事故で死亡しており、以後、彼は祖母、母、姉などと暮していたようです。
そんな彼も教会での聖歌隊ばかりか、友人と一緒に街頭でも唄うようになっていたらしく、もしかするとこの時の経験が「声量」の面で影響しているのかもしれません。
十代ですでに大きなカラダをしてたせいでなんなくクラブにももぐり込めたようで、鉛筆で口ヒゲを描き込み、父の形見の帽子をかぶって、堂々とクラブで演奏しているバンドを聴きに通っていました。

当時の Kansas City のクラブに出ていたコンボは、ジャズよりもブルース寄りで、シンプルなビートと、親しみやすい構成を持ち、ある意味、ロックン・ロールの「前段階」的な傾向が強かったらしく、それがまた彼の音楽的バック・ボーンを為す一要素として定着して行ったのではないでしょうか。
やがて 1929 年に、彼は the Sunset Cafe のバーテンダーという職にありつきますが、その時の彼はまだ十代です。そして、そこでハウス・ミュージシャンであるピアニストの Pete Johnson(同じく Kansas City 生まれ。1904 年ですから彼の 7 才上、ということになります。1967 年に死亡)と出逢いました。
機会があって、そのピアノに合わせてアップ・テンポのナンバーを歌ってみたのが好評だったため、この二人のコンビはすぐに「定番」化します。
そして 1936 年、John Hammond が the Count Basie Band を訪ねて Sunset Cafe に来た際に聴いた Joe Turner の歌に感銘を受け、Count Basie のバンドと一緒に New York に来るよう誘いましたが、ビッグ・バンドの前で唄うことに不安のあった Joe Turner はその件については断りました。が、そのかわり、Pete Johnson とのコンビではダメ?と Hammond に提案しています。こうしてこのコンビはその夏、New York に滞在して the Famous Door に出演したのでした。

1938 年になると、ふたたび John Hammond からの誘いがあります。
今度は Benny Goodman の番組 Carmel Caravan への出演依頼で、さらにその年の 12 月にカーネギー・ホールで行われた第一回のSpirituals to Swing コンサートにも出演することとなりました。
そのコンサート出演は成功し、すぐさま Vocalion が声を掛け、一週間後にはスタジオで初吹き込み( Roll 'Em Pete と Goin' Away Blues )をしています。
翌年早々、Hammond は二人を the Cafe Society( New York City のナイトクラブ、Albert Ammons、Clarence Pinetop Smith、Gene Ammons、Meade Lux Lewis などもここで演奏している)に連れていきましたが、そこでは Albert Ammons と Meade Lux Lewis とも共演をするようになり、そこでレコーディングのプランがまた浮上しました。
1939 年の 6 月に Oran "Hot Lips" Page のバンドをバックに Cherry Red、そしてバンドの替わりに Albert Ammons と Meade Lux Lewis が入った同じ曲、さらに Joe Turner と Pete Johnson の組み合わせで Cafe Society Blues を吹き込んでいます。(ほとんどコンビのようにして活動していた Joe Turner と Pete Johnson ですが、もちろんそれぞれが個人的に活動もしていたようで、例えば Pete Johnson は、Chicago で Harry James Band をバックに、Chicago で「歌って」もいますし、Benny Carter と Coleman Hawkins も在籍していた Varsity Six と Varsity レーベルに吹き込んでいました。)

1940 年には Decca と契約し、"Hot Lips" Page のバンドをバックに 4 曲ほど吹き込んでいます。このときの Piney Brown Blues は 400,000 枚を売り上げる大ヒットとなりました。Decca は "Hot Lips" Page 以外にも the Freddie Slack Trio や Willie Smith、Art Tatum などをバックにつけて Joe Turner のレコーディングを行っています。

1941 年には彼はハリウッドに出向き、Duke Ellington のJump For Joy というレビューに出演し、さらに西海岸一帯で公演し、結局、数年間、ウエストコーストに住み続けたのでした。
1942 年には Willie Bryant の ショウの一員として Meade Lux Lewis と組んでツアーに参加し、さらに NBC の放送にも出演しています。
1944 年には Joe Turner と Pete Johnson に Albert Ammons を加えてツアーを開始し、また Decca と New York の National Records にもレコーディングを行いました。
この National で吹き込んだ中の Johnson And Turner Blues は Esquire マガジンによって Male Vocalist in an All-American Jazz Band 部門の銀賞を受けています(このときの金賞は Louis Armstrong )。

ってことで判るよに、かなりジャズに傾いてる存在、とも言えるんじゃないでしょか。
出てくる名前も、ジャズ畑の人脈ゾロゾロですからねえ。
ここまでで、よーやく第二次世界大戦が終ったあたりまででしょ?まだまだ続きそうですねえ。
こりゃ仕方ない、明日につづく、ってことに。

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