Goes to "Big" Joe Turner

Joe Turner


2004-08-31 TUE.
第二次世界大戦の展望が開けたところで、一時停滞していたレコード製作も盛り返しはじめ、この時期、Joe Turner は Decca と National Records(この National Records についてはまだ調べておりません。手元の資料では National Music Lovers Records っていう 1920年代に New York でダンス・ミュージックのレコードを 8枚で 3ドルという価格で通信販売していた、たぶん別なレコード会社しか判りませんでした)に吹き込みをしており、Johnson And Turner Blues が Silver Award を獲得したことは昨日の日記で書きましたが、二年間に及ぶ National への 11 枚のレコーディング中、まともに売れたのはそれではなく、My Gal's A Jockey だけだったようです。
そこから 1949 年の Still In The Dark までは、いわば低迷期とでも言うべきパっとしない数年間を送りました。その間、彼は Stag Records( San Francisco )や Los Angeles の Deetone や Swingtime( Playboy Thomas や Lloyd Glenn などがレコーディングしているレーベル)、Houston の Freedom などのレーベルに吹き込んでいるのですが、唯一のヒットと言えるのが1949 年に Freedom からリリースされた Still In The Dark のチャート入りでした。しかし、全国配給網を持たないマイナー・レーベルの限界で、すぐにチャートから消えてしまっています。なんだかそのタイトル、「まだ暗がりのなか」ってのがまさにもう⋯

一時期住んでいた New Orleans から彼は北部に移動し、Lowell Fulson や Pee Wee Crayton といったギターをバックにクラブなどで演奏をしていました。
そんな彼にチャンスが転がり込んできたのは、いささかタナボタめきますが、Count Basie Band から Jimmy Rushing( 1903-08-26 ~ 1972-06-08、Oklahoma City、1935 年から Count Basie のバンドのヴォーカルを務め、1950 年に独立後、自らのスモール・コンボと、また Benny Goodman や Buck Clayton のバンドとも仕事をしている)が独立したことにより、その穴を埋めることになったからでした。
当時、Atlantic Records( 1947 年、在米トルコ大使の息子であった Ahmet と Nesuhiの Ertegun 兄弟によって設立された独立系レーベル。1953 年に Jerry Wexler をプロデューサーとして迎えたことにより大きくブレイクする)は Joe Turner に興味があったようで、探していた矢先、New York の Apollo にでかけた Ahmet は Count Basie Band のヴォーカルとして歌っていた彼を発見し、さっそく一年契約という形で Atlantic Records へのレコーディングを実現させました。

ここで Ahmet が賢明だったのは、彼の歌を、これまでのありきたりなジャズ系のナンバーから、より若い消費者層にターゲットを絞った R&B 的な音造りで仕上げた点でしょう。
1951 年 4 月19日(つまり、まだ Jerry Wexler はいません)、Van "Piano Man" Walls and His Orchestra をバックに吹き込まれた 4 曲のうち Chain Of Love は発売されるやたちまちチャートを駆け上がり、R&B 部門の最高 2 位に 4 週連続でとどまり、実に 25 週間、チャートに居続けたのでした。
このヒットによって一躍有名になった彼は Atlantic が仕立てた Cavalcade of Blues ツアーや、Helen Humes とのツアーなども行うようになります。

続いて(まだ Chain Of Love が在位中に!)発売された同じセッションからの The Chill Is On も R&B チャートの 3 位まで登りました。また Atlantic は Joe Turner のマイナー・レーベル時代の作品も 1952 年 1 月に Van "Piano Man" Walls のバッキングで新たに収録しなおして Sweet Sixteen を発売、これもそこそこヒットさせています。
以後、同年 9 月には Don't You Cry を、1953 年の春には Honey Hush を吹き込み、これは発売されるや R&B チャートを上昇し、実に 1 位を 8 週間にわたって独占したのでした(蛇足ながら、その 1 位を替わって奪い取ったのが Guitar Slim の Things That I Used To Do )。続いて Chicago で 10 月に行われたセッションで吹き込まれたのが「昨日の」 Oke-She-Make-She-Pop だったのです(このときのバッキングは、ピアノが Johnny Jones、ギターはなんと Elmore James で、ベースが Jimmy Richardson、ドラムは Red Saunders。ブラスでは Sonny Cohn-tp、Grady Jackson-ts、Mack Easton-bs となっています。プロデュースは当然 Jerry Wexler )

続いては同年 12 月に New York で録音されたナンバー、Shake, Rattle And Roll はチャート 1 位を獲得し、さらに「六ヶ月間も」チャートに居続けたのでした。
この曲はご存知のよに Bill Haley and the Comets によってカヴァーされ「ワールド・ワイド」なヒットとなるのでございますよ。
その後もヒットは続き( Flip, Flop And Fly も!)そこらいちいち羅列すんのもメンドーなくらいですが、Jerry Wexler と Nesuhi Ertegun はここで、かっての Joe Turner の相棒、Pete Johnson ともいちど組ませる、という企画をスタートさせ、そのコンビでの吹き込みや、1958 年の Newport Jazz Festival への出演、さらには Jazz At The Philharmonic (いわゆる JATPですね)のヨーロッパ・ツアーにも参加するなど、またひとつの時代を築き挙げました。

ただし、1950 年代の終焉とともに彼の商業的収穫期は終りつつあり、彼の最後のヒットと言えるナンバーは、「あの」 King Curtis をサックスに迎えた Jump For Joy でしょう。
それでも 1960 年にはアルバム Big Joe Rides Again をレコーディングし、ここではギターに Jim Hall を迎え、サックスに Coleman Hawkins を配して、よりジャズ色の強いものでしたが、Atlantic はこれを最後に彼との契約を打ち切ったのでした。

そこからの彼は、むしろジャズ系の場で活動を続け( The Five-Four Ballroom、The Birdland、Monterey Jazz Festival など)ますが、1966 年には American Folk Blues Festival のツアーに Pete Johnson とともに参加し、1967 年には Spirituals To Swing にも出演、さらに 1969 年には Johnny Otis と接触し、そのショウに参加し始めることとなります。

1970 年代の彼は Johnny Otis Show の一員として演奏するかたわらフランス・ツアーの折りに現地のレーベル Black and Blue にレコーディング、またふたたび Count Basie のバンドで唄ったものを Pablo にも残しました。
1972 年には妻に先立たれていますが彼はすぐに再婚しています。
1973 年には Trojan Records に、その翌年には LMI に、1977 年には Spivey にそれぞれレコーディングをしていますがこのころには彼の健康状態が徐々に悪化し始めていたのかもしれません。やがて卒中と糖尿病によって車椅子での生活を強いられるようになり、1985 年の11月24日に死亡しました。

その葬送で歌ったのはもちろん Pete Johnson です。

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