Ahmet Ertegun

Atlantic Records


2004-09-01 WED.
以前に STAX についての特集(日記で「特集」とか「連載もの」とかゆうのがそもそもヘンなんですけどね)をやった時に、もっぱら敵役として登場はいたしておりますが、その時も含めて、この ATLANTIC そのものを詳細には紹介してはおりませんでした。
このアメリカにおいて、特に R&B の分野において特別なプレゼンスを持ち、異彩を放つレコード・レーベルについて、あらためて採り上げたいと思います。

それにはまず、1936 年のトルコで、Munir という男が駐アメリカ大使に選任されたことから始めるのがいいでしょう。
トルコでは通常、苗字は自らの意思で選択・決定することが出来るらしく、そこで彼の選んだ姓は、「希望の溢れる未来に生きる」を意味する言葉らしい Ertegun でした。
その妻 Hayrunisa Rustem(こちらの苗字がどんな意味なのかは不明)はダンサーであり、かつ歌っても美声の持ち主だった上に、いろいろな楽器を独学で弾くことができた、といいますから、ともかく音楽的な才能には恵まれていたようです。
そんなワケでアメリカに住むようになった一家は、次々と新しい曲を買ってきたり、自分でも演奏したりする妻のおかげで音楽に「溢れていた」ようです。

この家庭には Nesuhi という 16 才になる息子がおり、彼が買ってくるレコードを通じてジャズに無中になったのが、5 才年下だった彼の弟、Ahmet だったのです。
兄弟は毎夜、それらのレコードを聴きながら眠りについたそうですから、その心酔ぶりが判りますね。
おそらく、この兄弟が聴いた音盤の種類はかなり広範囲なものだったことでしょう。
弟 Ahmet が 14 才になったときに母の Hayrunisa が、一般大衆のレヴェルではとても考えられない、それこそ「大使クラス」のセレブならでは、のプレゼントとして、レコードのカッティング・マシーンを買ってくれました。
第二次世界大戦当時のことですから、とうぜん電気的吹き込みで、マイクロフォンをつなぐと本体にカッティング・ヘッドをドライヴするアンプリファイアも内蔵されて、即座にメタル・マスターに音溝を切っていく、とゆー装置で、ふつー、ガキ⋯うっぷす、ロー・ティーンにオモチャとしていて与えられるよな価格のものではございません。
ま、さすがは「大使のご子息」ってえヤツでしょか。
彼はそれでさっそく Cootie Williams の West End Blues を録音し、もともとはインストのその曲に自分で歌詞を作り、そのメタル・マスターを電蓄で再生し、それに乗せて自分で歌ったものをカッティング・マシーンでふたたび録音する、という、今でいう多重録音のカンタンなのをやっていたそうですから、まあ、なんとまたハイソ(?)なお遊びざましょ。

こんな遊びに耽っている兄弟が、自然とコンサートや、古いレコード漁りをもっぱら外出の目的とするようになっていったのも当然でしょね。
二人が贔屓にしていたレコード・ショップは the Hot Record Shop と、後に DECCA の A&R マンとなる Milt Gabler の Commodore Music Store の二つでした。
やがて彼らは Duke Ellington や Lena Horne( Lena Calhoun Horne。女優でかつ歌手。のちには公民権活動にも関わった。1917 年 6 月30日 Brooklyn で生まれる。『母も混血だったため、かなり白人に近い容貌を持ち』というエピソード(?)も見た記憶もあるのですが、ネットで検索した限りでは、信頼出来そうな記述でそう記したものに出会うことは皆無でした。16 才で Harlem の Cotton Club のコーラス・ガールとして芸歴をスタート。20 才で結婚して一男一女をもうけるが後に離婚し、ハリウッドに進出して MGM と契約。1942 年の初出演作ではクラブの歌手の役だったが彼女の名前はクレジットされていない。代表作は彼女自身が同名のタイトル曲も歌っている Stormy Weather 。しかし 1956 年の MGM 作品 Meet Me In Las Vegas の後、いったん映画界から身を退き、翌年歌手として Lena Horne at the Waldorf-Astoria を録音、歴代の RCA 女性シンガー中のトップ・セールスを記録する。映画には 13 年の空白後に Death of a Gunfighter ─1969 年 Western─で復帰)そして先日の Jelly Roll Morton とも親交を持った、としている資料があるのですが、Jelly Roll Morton に関しては、その没年が 1941 年ですから、1930 年代末の、Washington D.C. にいたあたりじゃないと、ちょっと時代が合わないんですが、そこで一緒にコンサートを開くように動いていたようです。
ただ、白人と黒人が一緒にということで会場は限られてしまい、そちらではかなり苦労したらしいのですが、the Jewish Community Center で開催することが出来ました(後には National Press Club の講堂でも出来るようになっています)。

1943 年には、兄の Nesuhi が Los Angeles の the Jazzman Record Shop というレコード店のオーナーだった Marili Morden( 1940 年に T-Bone をブッキングしてクラブなどに出演させ、彼の人気を定着させた、腕のいいブッキング・エージェントでもあった)と結婚しました。
これによって、ウエスト・コースト系のミュージシャンや、その動向などの情報が手に入るようになります。
1944 年、兄弟の父、Munir Ertegun が死亡したのですが、第二次世界大戦がいまだ終結していなかったため、その遺体は Arlington National Cemetery に仮埋葬され、大戦の終結を待って本国に運ばれたのでした。当然、家族はそれに付き添って本国トルコに帰ったのですが、合衆国における学籍( St. Johns College で「 philosophy 」を専攻)を終了させるために Ahmet はアメリカに残ることを決意しました。
小さなアパートを借りて卒業するまでの間、通学していたのですが、その間に彼は Max Silverman という人物が経営する Quality Radio Repair Shop を見つけています。
当初、この店はその名のとおり Radio Set の修理と販売をメインとして、ついでにレコードの販売もしていたのですが、販売と修理に見切りをつけ(?)レコードに集中し、店名も Waxie Maxcie と変えています。そしてレコードも中古から新リリースのものに重心を移しました。
Ahmet は Max Silverman と親しくなって通いつめ、ここで、レコード・ビジネスのなんたるか、を学んだ、と言えるのかもしれませんね。

1946 年には(昨日の Big Joe Turner のとこで冒頭に出てきた) NATIONAL Records の A&R マンもしていた歯科医学生の Herb Abramson( 1917 年生まれ。Brooklyn の高校に通っていたあたりからジャズやブルースに興味を持ち始め、すでにレコード・コレクターでもありました。第二次世界大戦中には時に Ertegun 兄弟とともにジャズのコンサートなどを企画・主催しています。New York University で歯科医師となるべく学んでいた 1944 年には、その豊富な知識を買われて Billy Eckstine の NATIONAL Records ─ ただしこの NATIONAL records 自体は New York の Albert Green が興した会社で、正式には 1945 年の発足とされる。1950 年には消滅する短命なレーベルだった ─ への録音に際してプロデュースのアルバイトを始めています。先日の Joe Turner と Pete Johnson のプロデュースも手掛けたことがあるそうですから、やはり、このヘンの縁があったんですね。NATIONAL では Prisoner of Love と Cottage for Sale というふたつのビッグ・ヒットに関わり、さらにコメディアン Dusty Fletcher の Open the Door Richard をプロデュースしています)と知りあい、意気投合した二人は自分たちでもレーベルを興そう、と Max Silverman に相談し、援助を仰いでいます。
そこでゴスペルをメインとした JUBILEE と、ジャズ、そして R&B のための QUALITY という二つのレーベルを立ち上げました。
しかし、実際に録音し、盤を製造して販売してみると、それは Max Silverman が予想したほどには売れません。結局 JUBILEE は Jerry Blaine に 2500ドルで売却され(1946 年の 5 月に JUBILEE Record をスタートさせていますが、そこに Jerry Blaine がパートナーとして加わり ─ 業界的にはその発起人は Herb Abramson と Jerry Blaine の「ふたり」となっている ─ それによってジャズやゴスペルを目指していた彼の思惑に反して「ユダヤ系」のコメディに持って行こうとする Jerry Blaine に嫌気がさし、1947 年の 9 月にはその Jerry Blaine に JUBILEE を売り払ってしまった、としている資料もあります)、Ahmet が父の知人であった歯科医の Vahdi Sabit に用立ててもらった 10000ドルとともに新たな会社の設立資金となりました。
そこで採用された社名 ATLANTIC は、決して彼らが望んだものではなく、候補に挙がった名前がどれもすでに押さえられていたために、たまたま耳にした「 Pacific Jazz 」に、それならこちらは「 ATLANTIC 」で!という程度のものだったと⋯

1947 年 9 月、ATLANTIC がスタートし、10月には設立登記がなされました。初代社長は Herb Abramson、副社長は当然 Ahmet Ertegun。
ここに戦後のアメリカにおいてユニークな独立系レーベルとして、COLUMBIA、DECCA そして RCA という三大メジャーが支配的市場を形成していたアメリカのレコード業界に風穴を開けた ATLANTIC Records が走り始めたのです。

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