Jerry Wexler & Nesuhi Ertegun

Atlantic Records


2004-09-02 THU.
1947 年にスタートした ATLANTIC は当初、ブロードウエイの Jefferson Hotel の一室をオフィスにしていました。スィートのベッド・ルームで起居し、居間をオフィスとしてあてていたのです。

James Caesar Petrillo( 1892 - 1984。1940 年から 1958 年まで American Federation of Musicians の議長を務める。Chicago に生まれ、1915 年に弱冠 23 才で American Musician's Union の委員長となり、1918 年 American Federation of Musicians に加入し、1922 年には地方支部の代表に立候補して選任されるや、積極的に改革を推し進め、その功績を評価されてトップに君臨する。在任中、放送局やレコード会社に対して数度のストライキをぶつけ、音楽業界に少なからぬ影響を与えた。1958 年にその座を退いた後も、Chicago 支部の代表として 1963 年までその存在を誇示しつづけた) によって 1948 年 1 月 1 日から突入することが予告されていた音楽関係の技術者も含むストライキに備え、ATLANTIC の最初のレコーディングが行われたのは 1947 年11月21日で、the Harlemaires(ピアノ、ストリング・ベース、ギターにドラムというクアルテットで、ドラムは女性)の The Rose of the Rio Grande に始まり、年末までに、実に 65 曲の録音を「終え」ることが出来たのでした。
ただし、それらの録音も、一時期の文化的な断面の記録としての価値はあるとしても、セールス的にはまったく不本意なものだったようです。
そこで Ahmet はアレンジャーである Jesse Stone と連れ立って、南部諸州にまで出かけ、実際の音楽シーン、それもライヴではなく、レコードに合わせてダンスする、つまり後に生まれた「ディスコ(本来はフランス語のディスコテーク: Discothéque から来ている)」という単語そのものの現場を「視察」にでかけたのです。

そこで彼らが目にしたものは、踊る若者たちの「好み」が実にハッキリとしていること、でした。その音楽に「ある種の」ビートが含まれているとみんなは一斉に踊りだすのに、これまで ATLANTIC が録りためたようなジャズをベースとした「マイルド」かつ「 Up-to-dated な」ものが掛かると、それはまさに、ホールで踊る合間の「ひと休み」の時間になっていたのです。
そこで彼らは方針を変え、まずはベース・ラインにビートの強いアレンジを加えることにしました。
そうして生まれた ATLANTIC Records 初のメジャー・ヒットが Stick McGhee* の Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee だったのです。


* ─ 1949 年に ATLANTIC 45-873、by 'Stick' McGhee & His Buddies としてリリースされていますが、本名は Granville McGhee で 1917 年生まれ(没年は 1961 )。
この曲は最初 1947 年にマイナー・レーベル HARLEM に吹き込まれ、DECCA からも発売されていますが、どちらも 78 回転の SP でした。
そちらはもう少し粗削りで、歌詞も多少違うものだったようですが、ATLANTIC では彼の兄である Brownie McGhee ( 1915-1996 )をギターに投入、ピアノも Wilbert 'Big Chief' Ellis で「強化」し、SP( A-189 SP )と EP で発売し、それが苦節 23 枚目(?)にしてよーやく ATLANTIC にヒットをもたらしたのでした。

そして 1953 年には Jerry Wexler ( 1917 年 1 月10日 New York 生まれ。早くから黒人音楽に興味を持ち、ハーレムのクラブなどに通っていました。1941 年から陸軍に入隊し、除隊後は学籍を獲得していた Kansas 大学でジャーナリズム関係を専攻する。大学在学中から学校の新聞に寄稿するようになり、卒業 ─あるいは「脱落?」─ 後は New York に戻り Billboard Magazine に就職。同誌に執筆するうち R&B に興味が集中するようになり、その仕事を通じて Ahmet Ertegun と知り合う。プロデュースの手腕を買われて副社長として参加)が 2063 ドル25セントを出資し、総発行株式の 13% を保持する形で参加し、これが ATLANTIC を大きく飛躍させることとなりました。そしてもうひとつ忘れてならないのは、この時期から 1955 年まで、社長たる Herb Abramson が二年間、兵役(陸軍)のために不在であったことです。
彼が除隊して復帰してみると、そこはもはや彼なしで機能する別な「機関」として運営されていたのでした。特に、Jerry Wexler は彼の不在を補って余りある活躍をしており、むしろ、そのポジションはもはや Wexler のためにあるような状態だったのです。
そこで、ATLANTIC はサブ・レーベルを作り、Herb Abramson をそのトップに据えることにしたのでした。
その前の1954 年には CAT レーベルをスタートさせていましたが、やはり彼には一から新しいレーベルを、と言うことで 1955 年 7 月には ATLAS Records をスタートさせようとしましたが、こちらの名称はすでに登録されていることが判明したため、すぐに ATCO と改めています(これは ATLANTIC と Company のそれぞれ最初の二文字を組み合わせたもの)。

ただし、この 1953 年から 1955 年というのは、ATLANTIC にとっては別なモンダイを抱えていた時期だったのではあります。
それは彼らがプロデュースしてリリースした作品が、R&B チャートで多少なりともヒットすると、必ずそれを白人や、あるいは黒人でも「黒人色を薄めた」グループやらシンガーがさっそくカヴァーして、しかも不愉快なことに、決まってそのカヴァーのほうが上位まで登る、ということでした。
たとえば Jerry Wexler の初プロデュース作品である LaVern Baker の R&B チャート14位をマークした Tweedle Dee は、白人の Georgia Gibbs が採り上げて、ポップス・チャートの 2 位までいっています。
the Chords の Sh-Boom は大ヒットと言って良い勢いだったのですが、それもカナダのグループ the Crew-Cuts がそのカヴァーを出すまでの短い命でした。
つまり、それは逆に考えれば、彼らの「作品を見抜く眼」は確かであっても、それを「完成させる手腕の欠如」を示唆しているワケです。
特に、その販路を黒人の消費者にだけ絞るのではなく、若い白人層に「いかにして広げるか」が重要になります。
そこで Jerry Wexler と Ahmet Ertegun が導入した新しいスタイルが Rock and Roll でした。
1954 年の 5 月にリリースされた Big Joe Turner の Shake, Rattle and Roll( Jesse Stone の作)は見事にヒットし、そして、これもまた白人の Bill Haley and the Comets によってカヴァーされ、時代の転換点となったのでした。
しかし、相も変わらず、いいネタを提供はするんですが稼ぐのは他のとこ、という趨勢はなかなか覆すことが出来なかったのです。

1955 年の11月には Los Angeles の SPARK Records の Lester Sill が販売マネージャーとして加わり、Leiber & Stroller ( Jerry Leiber と Mike Stroller。1950 年代から 1960 年代にかけて、数々のヒットを生み出したコンビ。Jerry Leiber は 1933 年 Baltimore 生まれ、Mike Stroller は同じ年ながら少し遅れて New York の Belle Harbor で生まれています。戦後すぐに両方の家族が西海岸に移っており、1950 年に Los Angeles で二人が出逢い、R&B 好き、などという趣味嗜好が一緒だったこともあって互いに接近し、一緒に曲を作るようになります。その作品は Amos Milburn や Floyd Dixon、Jimmy Witherspoon などによって採り上げられましたが、Charles Brown によって吹き込まれた Hard Times によって、彼らの存在は広く知られるようになりました。そしてこの二人が、販売マネージャーとして前述した同じくウエストコーストのプロモーターでもあった Lester Sill とともに SPARK レーベルの設立に大きく関わっていた、とされています。Jerry Leiber はややユーモラスな歌詞を多用し、シリアスな曲を志向しているような Mike Stroller とのコンビの妙が Kansas City や Hound Dog などの数々の名曲を作ったのかもしれません)さらに the Robins も手に入ったことになります。この the Robins は後の the Coasters。

しかし、獲得するために画策した Elvis Presley は RCA にさらわれてしまいました。はたして、これが獲得できていたら、その後の ATLANTIC はどうなってたでしょう?
言い方は悪いけれど、なまじ「出せば売れる」ようなスターを持つことが、そのレコード会社を堕落させた例はあまたありますからねえ。
その意味ではエルヴィスを獲り損なったおかげで、彼ら自身が新しい「芽」を発掘しよう、という意欲を持つことが出来た、と考えることもできるかもしれません。結果論だけど。

1956 年には Nesuhi Ertegun が経営陣に加わります。
彼は主にジャズ部門の充実に関わり、John Coltrane、Charles Mingus、Ornette Coleman、そして Modern Jazz Quartet などをそのカタログに加えました。
もっとも、彼の関心はジャズにだけ向けられていたワケではなく、R&B や R&R にも関わって、Ray Charles や the Drifters などのプロデュースも行っています。

こうして ATLANTIC にはまた Nesuhi と Ahmet の Ertegun 兄弟が揃うこととなったのでした。
1918 年生まれの Nesuhi 38 才、同じく 1923 年生まれの Ahmet は 33 才。この兄弟が ATLANTIC をスタートする「前に」集めたジャズとブルースの音盤はおそらく 15,000 を超えた、と言われています。


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