Atco & Herb Abramson

Atlantic Records


2004-09-04 SAT.
ところで Nesuhi が参加するまでの ATLANTIC の経営陣で、ひとり重要(?)な存在を忘れておりました。それは初代社長たる Herb Abramson の妻で、副社長で経理担当重役でもあった Miriam です。もうひとりの副社長たる Ahmet Ertegun も含めた三人で中核を担っていたワケですね。
その Herb Abramson が、1953 年に名目上(というか、役員としての報酬も継続したままで!)は社長のまま陸軍に入り、その穴を埋めるために Ahmet と Herb Abramson は Jerry Wexler を入れたのだ、としている資料もあります。

兵役から戻って来てみれば Nesuhi はジャズ部門を充実させているし、かって自分が占めていた製作部門のプレゼンスは Jerry Wexler にとって替わられ、妻の Miriam も経理担当として彼の不在の間にエラくなっちゃってて、存在価値がすっかり薄れてしまった Herb Abramson。
その彼のために創設された ATCO レーベルですが、そのアルバムのカタログは 1957 年11月の the Coasters の LP、33-101( Riot in Cell Block Number Nine も収録)でスタートしました。
シングルの方では 1956 年10月の 45-6080、Glenn Reeves の Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee の存在が確認できましたが、これが ATCO の本当の最初のシングルかどうかはまだちょっと確信がもてません(しかも、はたしてこれが ATCO としてレコーディングされたものかどうか、ちょっとギモンもあります。とりあえず ATLANTIC のマスターから流用した、という可能性もありますしね)。ただアルバムに関しては彼自身が相当プロデュース面でも関わっていたようですが。

この Herb Abramson は、その後、Miriam と離婚することになり、それによって、彼の社内での位置がかなり微妙なものとなったようです。
さらに、この後で出てくる Bobby Darin の楽曲( Bobby 自身が作った曲を Herb Abramson が認めず、そこで Bobby は Ahmet に直訴し、結局レコーディングすることが出来たのですが、それがまた「なまじヒットしてしまった」ために Herb Abramson と Ahmet の間も気まずくなってしまう)の件もあってギクシャクし始めてしまったようで、結局、新たな天地を求めて(?)1958 年12月( alt.1957 )には自らの手持ちの株を 30 万ドルで売却し(一説によると、それを購入したのは、元妻の Miriam Beinstock ということでしたが、結局それもまた、会社設立時に出資した歯科医の Vahdi Sabit の持分とともに Ahmet と Nesuhi の Ertegun 兄弟、そして Jerry Wexler によってすべて買収され、それ以降はこの三人によって ATLANTIC は「所有」されることとなります)、それを原資として TRIUMPH や、1958 年には Gene Pitney( 1941.2.17、New England の Rockville 生まれ。ATCO では Ginny Arnell という女性ヴォーカルと共に Classical Rock & Roll をレコーディング。そのときの名義は Billy Bryan でした)と Bobby Comstock( Tennessee Waltz )などを録音した BLAZE、さらに 1960 年には FESTIVAL というレーベルを興し、Butterbeans and Susie というコメディアンのアルバムを KING Records のディストリビュートで発売しました。
その後の彼は A-1 Recording Studio を所有し、独立したプロデューサーとして Elmore James や Tommy Tucker の High Heel Sneaker( words and music by Robert Higginbotham。これは CHESS / CHECKER にリースされ、R&B チャートの11位まで上がる)なども手掛けています。
1980 年には西海岸に移り、貧困の中にあっても、ふたたびヒット作を作り出すことを夢見ていたようですが、その機会がふたたび彼の許に訪れてくることはありませんでした。
Herb Abramson は 1999 年11月 9 日、Nevada 州 Henderson の St. Rose Dominican Hospital で永眠しました。死因は公表されていません。

さて、SPARK Records のところで出てきた the Robins のメンバーのうち、Carl Gardner と Bobby Nunn は、Jerry Leiber と Mike Stroller を追うように西海岸を離れ、新しいグループ the Coasters を作り、ここに Leiber-Stroller の楽曲を得て 1956 年から 1961 年にかけて Searchin' や Yakety Yak、Charlie Brown に Poison Ivy などのヒットを連発しています。
Leiber-Stroller は ATLANTIC の専属プロデューサーではなかったので、当然、他のレーベルのためにも仕事をしています。それでも、彼らの主な成功作は ATLANTIC に「多い」のは事実で、the Coasters 以外にも LaVern Baker、Ruth Brown、Clyde McPhatter、Ben E. King、そして the Drifters!(あ、まったくの蛇足ですが、この「漂流者・放浪者」って名前、付けやすいと見えて、その存在を知らない異国のバンドがよく同じ名前を付けたものでした。イギリスの the Drifters も後にこちらの存在を知ってすぐに改名しています。the Shadows と。でも、なかにはずうずうしいのもいて平気で通しちゃった極東の「楽団?」があったとか)
このコンビが 1958 年に the Drifters に歌わせた There Goes My Baby は社内ではさんざんな不評で、Jerry Wexler など、これを評して「 Dogmeat(つまり犬の肉。欧米ではゼッタイ喰わない)」と斬り捨て、発売を見送ろうとまでしたようですが、執拗な Leiber-Stroller の喰い下がりに根負けして(?) 1959 年 4 月に発売したところ、あろうことか、軽々とチャートを駆け上がって見事 1 位にまで登りつめ、皮肉にもその曲が ATLANTIC「最大の」ヒットとなったのでした。

当初 10 インチ・サイズでスタートした ATLANTIC の LP アルバムですが、Nesuhi はそれらの 100 番台 400 番台や、初期の 12 インチも含めて見直しをし、新たに 1200 番台のシリーズをスタートさせました。
それらはジャズと R&B を中心に(後にジャズ色を強めて行くのですが)一枚 4 ドル 98 セントで発売されました。ややあってポピュラーをメインにした 3 ドル 98 セントの 8000 番台のシリーズを 1956 年からスタートさせています。さらに一部の 1200 番台の R&B 系のアルバムは後に 8000 番台で再発されたものもあったようです。

1957 年にステレオ・レコーディングの技術が商品化されると、ATLANTIC は独立系レーベルとしてかなり早い時期にそれを取り入れました。ただし、Bobby Darin の Splish Splash など、レコーディングはステレオで行っているのに、LP として発売( ATCO 33-102。1958 年 8 月)されたのはモノーラルのみ、というケースもあり、実際にステレオ再生に適応した LP が発売されたのは 1959 年になってからで、シリアル・ナンバーからして、その最初は、これも Bobby Darin の That'a All; ATCO 33-104/SD だったようです(なお Bobby Darin の Splish Splash は 1968 年になってようやくそのステレオ版がオムニバス History of Rhythm and Blues, Volume 4 ; ATLANTIC SD-8164 に収録されました)。

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