Jerry Wexler & Stax

Atlantic Records


2004-09-05 SUN.


さて、ひところ、出すヒットをすべてカヴァーされて、いわば、トンビに油揚をさらわれてばっかりだった ATLANTIC でしたが、1950 年代も終るころになるとようやく消費者の耳も肥えてきたようで、カヴァー・ヴァージョンでは飽き足らず、そのオリジナルの方を聴こうとする層が次第に増えて来ました。
そして迎えた 1960 年代、ATLANTIC の年代記に、ひとりの男が浮上して来ます。それまで SPARK Records の Lester Sill、そして ATLANTIC がディストリビュートしていた Lee Hazlewood の TREY レーベルでプロデュースをしていた Phil Spector です。

後に Wall of Sound と呼ばれる、独特な音群が重層する凋密な「造り」で有名となる彼は、1960 年に New York に移り、翌 1961 年まで ATLANTIC で仕事をしています。
彼の ATLANTIC での初仕事は Coasters や Ben E. King と Drifters のセッション・ギタリスト(!)だったようで、彼のギター・ワークが Drifters の On Broadway で聴けるというんですが・・・
それとは別に Jerry Leiber と Mike Stoller は彼を DUNES レーベルの Ray Peterson の Corinna, Corinna( alt. Corrine, Corrine )や、Curtis Lee の Pretty Little Angel Eyes のプロデューサーに起用し、それが大ヒットしたことで、ATLANTIC も初めて彼の価値に気付き、プロデューサーとしての契約を結んだのでした。
ただし、Phil Spector とて万能ではなく、そのいい例が有名な Twist and Shout で、この曲は彼のプロデュースによって the Top Notes というグループで吹き込まれているのですが、その出来上がりを聴いた曲の作者 Bert Berns は、「俺ならこう造る」というアンチテーゼとして Isley Brothers を使って吹き込み直しました。そして、その「これが Twist and Shout だっ!」ヴァージョンは、ご存知のとおり「大」ヒットしております。
それでも ATLANTIC 在籍中の Phil Spector は LaVern Baker や Ruth Brown のプロデュースを手掛け、そこそこ成功したと言って良いのではないでしょうか。
そんな彼も結局 1961 年には Lester Sill とともに PHILLES Records を創設するために去って行ったのでした。
1960 年代に入ると、1952 年以来の Ray Charles は ABC-PARAMOUNT に去り、Bobby Darin も CAPITOL に移籍してしまいました。
そして替わって獲得したのが APOLLO から移籍して来た Solomon Burke です。
彼の Just Out of Reach は 1961 年 9 月にリリースされ大ヒット!結局、彼は 1968 年まで、ATLANTIC に数多くのヒットをもたらしたのでした。
ところで 1964 年にはまた新たな子会社たる COTILLION レーベルを発足させ、そのレーベルは後にサザン・ロックやソウル、ゴスペルのレーベルとなっていきます。
てな ATLANTIC にとっての 1960 年代の動きの前に、ひとつ重要な転換点がありました。
1960 年に、Jerry Wexler のもとに Memphis のレコード・プレス製造業者 Buster Williams から、「もの凄い数をプレスしてるレコードがある」という情報が入ってきます。
それは Carla Thomas とその父 Rufus Thomas のデュエットした Cause I Love You という曲で、それをリリースしているのは SATELLITE という Memphis の小さなレコード会社でした。
そう、今年の 1 月 9 日の日記で採り上げた、あの STAX の前身です!
Jerry Wexler は即座に Satellite の Jim Stewart に連絡をとり、その録音を向こう 5 年間、5000 ドルで買い取ることで合意を見ました。この契約こそが ATLANTIC にとってはまさに「大ラッキー!」、そして SATELLITE、いえ STAX にとっての「地獄*」の始まりとなるワケですね。

* ─ ATLANTIC との間で締結されていた契約が期間満了となり、再締結の交渉をする必要があったのですが、そこで Jim Stewart はこれまでの作品の所有権が「すべて」ATLANTIC に帰属することになっていることに気付き、戦慄することとなりました。
それを取り戻そうとする交渉は泥沼に入り、いずれにしても「気付くのが遅かった」STAX にはもはや打つ手は無かったのです。
こうして Otis Redding を始めとする多くのミュージシャンの版権は STAX の手から「合法的に」奪い去られてしまったのでした。


そしてエンジニアの Tom Dowd を Memphis に送り込み、さらに録音機材も録音施設も一新されて、STAX のクォリテイは飛躍的にグレード・アップされています。また STAX のスタジオ・ミュージシャンたち、特に Booker T. & the MG's に代表されるバッキングのレヴェルの高さに感銘を受けた Wexler はアーティストを Memphis に送り込んで録音することで数々の素晴らしいトラックをものにしたのでした。
翌年の Carla Thomas 自作の Gee Whiz の発売に関して Jerry Wexler はさっそく、交わされた約束(この時点ではどうも正式な書面での「約定」ではなかったようなのですが)をタテに、その販売権は ATLANTIC にあると主張し、それを認めさせました。Gee Whiz は見事に Billboard の 5 位にまで駆け上がります。
SATELLITE は 1961 年、社名を STAX と変更し、以後 8 年間 ATLANTIC との関係は続くことになります。その先に待ち受ける悲劇も知らず⋯
STAX からもたらされた Booker T. & the MG's、Carla Thomas、the Mar-Keys、Eddie Floyd、William Bell、そして Otis Redding はどれも良好なセールスをマークし、ATLANTIC のカタログを充実させてくれました。
ただ、Sam & Dave だけは Jerry Wexler のアイデアで Memphis に送られ、そこで録音し、さらに STAX から発売される、という例外だったようです。
1964 年には Jerry Wexler は Wilson Pickett と契約し、そのプロデュースを前述の Twist and Shout の作者でもあった Bert Berns に任せてみたのですが、その出来は Wexler の期待を下回るものだったようで、彼は Wilson Pickett と STAX のセッション・ギタリストかつプロデューサーでもある Steve Cropper をホテルの一室に呼びつけ、ジャック・ダニエルズのボトルも渡して二人に曲を作らせたそうです。
そうして出来たのが In the Midnight Hour で、これも当然 STAX のスタジオでレコーディングされ、これまた当然のようにヒットすることとなりました・・・

1965 年、Jerry Wexler は Jim Stewart に、ATLANTIC 自体が「売却」される可能性があることを告知し、そうなった場合でも、「 STAX を保護するために」成文化しよう、と提案しています。
それに STAX の Jim Stewart は、Jerry Wexler が ATLANTIC を去った場合、及び ATLANTIC が売却された場合には再交渉するものとする、という条件を入れるように主張しました。
ただ、最終的には Jim Stewart は Jerry Wexler を信頼していたためか、実際にそのような売却の動きがあったのかどうかを確認することを怠ってしまったんですねえ⋯
そして 1967 年、STAX と同じようなレヴェルで、そしてまたひと味ちがったバッキングをしてくれる別なスタジオを見つけた Jerry Wexler は、まずそこに COLUMBIA との契約が切れたことで ATLANTIC に移ってきたばかりの Aretha Franklin を送り込んだのです。Alabama 州 Muscle Shoals、Rick Hall による Fame Studio へ。
そこで録られた I Never Loved a Man はヒットし、以後、Respect、A Natural Woman、Chain of Fools と続いていくことになります。

とまあ、Jerry Wexler が R&B の方面で新しい可能性を切り開いていた一方、 Ahmet Ertegun は白人のロック(あるいはポップス)に手を広げていました。でも、それはまた明日、ということで今日はここまで。

今日の予報が曇り時々雨、なんて言ってたんで昼ころまでおとなしくしてたけど、いっこうに降り始める様子もないし、いえ、それどころか、お昼過ぎには薄日までさしてきたじゃないの!
うへっ!こりゃ走らないのはもったいないぞ!ってワケで、Cannondale-R700 で走ることにしました。途中、降られたって、この気温じゃ気持ちいいぐらいで、風邪ひくこともないでしょ。

前回、タイヤの接着面に出来た空気室のせいで一周するごとに「プキュ」てな可愛い(?)異音を発していたフロント・ホイールも、その鳴る位置をマークして、そのヘンだけ一度ハガして再接着したら、見事に音が消えました。
それを確認しつつ、それでもいつ雨が降ってもいいように弘前から 10km 以内の範囲で南から反時計回りに大きく円を描くように走ります。

最初っから雨が来るかも?って腰が引けてるせいで、いつもの Beat に積んでってそっから走るんじゃなく、市内の空いた道を辿って郊外に出ました。
なるべく交通量の少ない、でも路面状態のいい農道を選んで走ります。
たんぼの稲はまだ葉が緑だけど、穂先はだんだん下がってきてますねえ。
ここで台風なんかにやられなきゃいいんですが・・・

この Cannondale には安い方の LOOK ペダルをつけてるもんで、クリートの遊びが無いんですねえ。
ORS のは左右に 4 度でしたっけ?許容範囲があるんですが⋯
そのかわり、チューブラーがミシュラン・スリックより太いもんで、乗り心地はもっとマイルドで、ロング・ライドに向いてます。
それにシフトも Campgnolo の手元シフトでラクチンだし。
あ、でもサドルだけは重量フリークだった時代の名残で、カーボン・ピラーにケブラーっちゅうコリコリなんでこいつで走るときはちゃんとパッドの入ったレーサー・パンツがマストでございます。( ORS の San Marco は見た目、細いんですがあまり痛くないんですよ)

およそ 2 時間半かけて弘前を 3/4 周して西から戻ってきました。ケッキョク最後のころなんてどんどん雲も薄れてって全天が青空になりかかってましたね。

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