Rockin’ with Red

Piano Red


2004-09-09 THU.


長いときにはこの曲名&演奏者名が次の行まで行っちゃったりするんですが、今日のはまたシンプルですねえ。
1950 年 7 月25日、Atlanta の WGST での録音で、バックには W. J. Jones のベースと William R. Green のドラムです。
ケッコーのどかでホッピィなリズムに乗せて、そこはかとなく「優しさ」を感じさせる素直なヴォーカルが気持ちよさそに唄っておりますよ。
ホントなら彼の初吹き込みは 1933 年( alt.1936 )の Blind Willie McTell としたヤツがあったハズだったんですが、残念なことにその録音は「失われて」しまい、現在はこの曲が彼の現存する最も古い録音、ってことになっているようです。

William Lee Perryman は 1911 年10月11日、Georgia 州の Hampton で生まれました( 19 才も離れている兄の Rufus G.Perryman ─ 後の Speckled Red はここではなく 1892 年10月23日、Louisiana 州の Monroe で生まれています)。男女四人づつ、計 8 人の子供たちのひとりだったようですが、おそらく長男だったろうと思われる(なんでかってえと、一家を養うため、父と二人で「働きに出た」という発言が Piano Red のインタビューに残っているからでございます)兄の Rufus 以外はちょっと資料が見つかりませんでした。
そのインタビューから彼自身の語る生涯を少し追ってみます。

1917 年、彼がまだ 6 才の時に一家は Hampton から 32 マイル離れた Atlanta に移りました。
それまでは Davidson という主人のもと、農園で暮していたのですが、ある日、その主人が農園の黒人たちを「しばき倒す」ために作られた鞭(三つコブがある木の枝、というハナシもあります)を手に小屋の前に立ち、娘はどこだ!出せ!と怒鳴ったらしいんですよ。
父は、「娘ってのは Sally のことかね?なにをしたか知らないが、ワシの娘を叩かせるワケにはいかん。あいつを叩いていいのはワシと家内だけだ!」とやり返したそうです。
それを聞いた Davidson は部屋の中に押し入ろうとしましたが、父が Smith & Wesson のロング・バレルの六連発リヴォルヴァーを手に、前に立ちはだかり、「もう一歩でも前に出たらあんたのカラダは二つに別れることになるぞ!」と威嚇した、という事件がありました。
もちろん、白人の農園主にそんなことをした黒人がそのままでいられるワケはなく、一家はそこを出て Atlanta へ移ったのでしょうね。
このエピソード自体は彼が 6 才のときですから、Davidson が手にしていたのが Wand ─ 棍棒の類なのか、はたまた鞭だったのか、そして父が Davidson に向けたのが S&W のリヴォルヴァーなのかショットガンだったのかなど、多少の混乱が見られますが、それはたぶん後日、父が語って聞かせる「武勇伝」が時とともにエスカレートしてった(?)せいかもしれません。
どうも、ワタクシとしちゃあ、白人の雇い主に「銃を向けて」、Atlanta に移住するくらいで済んだ、とはちと信じられないんですよ。
ひょっとして「銃を向けて」ってのは父の作った「おハナシ」であって、実際には「睨みあった」、くらいだったんじゃないか?ってえ気がするんですが・・・

ま、それはともかく、つましい農園での暮しの中で少しは蓄えを作っておいたおかげで Atlanta に移り、なんとか住む家も見つけたようですが、この前後の、かっての雇い主とのやりとり(それもモチロン父が語って聞かせたものでしょうが)ってのが、「銃を向けた」っていう行為の後に交わせるような会話じゃないように思えますが、そこばっかほじくってると前に進まないんで「見切り発車」するとしますか。

その Atlanta での生活は、父と、19 才も年上の兄 Rufus がともに the Miracle Machine Shop というところに働きに出ることで支えられていました。
Rufus もやや弱視の傾向があり、近距離の視界しかきかないために出来る仕事は限られていたようですが、それでも家計の助けにはなっていたようです。
もうすでにその兄 Rufus は the Miracle Machine Shop の仕事に見切りをつけ、ハウス・パーテイなどでピアノを弾き、Speckled Red として知られ始めていたようですが、ある日、母が、「あなたたちも兄さんのように弾けるようにならなくちゃね。ピアノを買おうと思うの」と言い出し、週に 1 ドルの支払いで良い、というセールスマンをみつけ、そこで家には(もちろん新品ではないらしいけど) Gainesborough のアップライト・ピアノが届けられ、母はその金を稼ぐため働きに出たのだそうです。

1921 年には Rufus が Atlanta を出て Detroit に向かいました。
William Lee Perryman、つまり Piano Red が兄の消息を次に知ったのは、この日記でも昨年の12月19日に採り上げたDirty Dozen を吹き込んだ、というニュースだったそうで、Atlanta を出て行ってから 8 年目のこととなります。
この兄、Speckled Red が久しぶりに帰ってきたのは実に 1960 年のことだったとか。
それも Piano Red がミュージシャンズ・ユニオンに依頼したことで、やっと連絡がついてのことだったようです。「弟さんがあんたを探しているよ」と組合から聞かされた兄は電話を掛けてきて、ひと月後やってきて、一ヶ月ほど家族と過ごしていきました。

家に来たピアノのおかげで William Lee Perryman は「 Piano Red 」になってゆくのですが、学校に通うかたわらパーテイ(ただし未成年なので、夜のお酒の出るパーテイではなく、日中のパーテイね)で金も稼ぐようになっていました。
家の中の家具をなるべく全部運び出して、みんなが充分ダンス出来るだけの広さを確保して演奏をするワケです。
当時 Atlanta にはギターを抱えて街頭でブルースを歌って生活していた Willie McTell や Barbecue Bob、Charlie Hicks に Buddy Moss、Curley Weaver などのブルースマンがおり、そのときどきで招きいれて( 10 セントから 25 セントで来てくれた)一緒に演奏していました。

やがて Peachtree Street にも演奏しに行くようになりましたが、それは白人を聴衆にする、ということでした。招かれて行った先でカントリーのバンドの合間に演奏して、いつもならそれだけ稼ぐには三、四日ほどかかる 10 ドルを、たった 10 分で手にしたのです。
1931 年にはその Danceland というカントリー・ミュージックのクラブや、Howell Mill Road にあったカフェで週に三度演奏するようになっていました。
1933 年には Georgia 州 Augusta で Blind Willie McTell とともに Calloway とかいう男のレーベル、Bocalion やら Cotillion やらいう・・・あ、Vocalion かもしんねえ、なんてかなりアヤしい記憶ながら、一曲につき 10 ドルをもらって 10 曲を吹き込んでいるのに、結局「リリースされなかった」!もし、これが出ていれば晴れて彼の初録音の栄誉を手に入れていたのですが。

Dixie Jazz Hounds というバンド名で North Carolina 州の Brevard で毎週金曜に演奏し、さらに Georgia 州の Hawkinsville、Thomasville、Griffin、Macon、Eastman といった小さい街も廻っていたようです。
そんなとき、Atlanta の Decatur Street にあった the Hole in the Wall Club で演奏していたときに、Central Record Shop の Mr. Young がそれを聴いて、「俺が売ってるレコードよりいいじゃないか!」と言ってくれて、RCA の配給部門の Sam Wallace も連れてきて聴かせてくれたのでした。
Sam Wallace は「音楽に詳しいワケじゃないので(なんたって製作じゃなく販売部門ですからね)、よく判らないが、ワタシはこうゆうの好きだな」と言ってくれて、二週間後には製作担当の Steve Sholes を Atlanta に送り込んでくれたのです。
かくして1950 年 7 月25日に地元の放送局 WGST でオーディションが行われ、そこで吹き込まれた Rockin' With Red と Red's Boogie は持ち帰られて Victor 22-0099 となった⋯
でも、違うストーリイも伝わっていて、それによると、Steve Sholes は彼を Nashville の Methodist Film Commission ビルにあった RCA のスタジオに連れて行った、というんですが、Methodist とあるとおり、宗教関係に縁の深いところなんで、彼が売春宿について歌った曲を始めたもんで、RCA も立ち退きを求められた、なんてハナシがこの英文ライナーには記されております。ま、レコーディング・データとしては WGST となっていますので、Nashville での件はこれとは別口だと思います。
もっとも Steve Sholes も録音はしたものの、「ワタシはカントリーなら判るが、この手の音楽はよく判らないんだよ。」と言ってたそうですから、もう少し「判る」ひとに聴いてもらおう、として Nashville に連れて行ったんでしょうか?

そのレコードは10月に発売されましたが、まず地域限定で Atlanta、New Orleans、そして Memphis で先行販売され、その売れ行きがかなり好調だったので全国でも発売したそうです。特に地元 Atlanta の WAOK の D.J.だった Zenas Sears はいちんちじゅうかけてくれたそうで、彼が WAOK の社長になったときに Piano Red に毎日午後の一時間、生演奏でのショウ・タイムを与えてくれたのだとか。

その後も Atlanta をベースとして(ときに録音を New York で行うこともあったようですが)放送に、レコーディングにと活躍し、RCA には 1958 年まで吹き込みをしていますが、1959 年には Checker に Get Up Mare を、さらに Jax というマイナー・レーベルにも 8 曲を吹き込みをしていますが、そこでは彼のもうひとつの人格(?) Dr. Feelgood という名前が使われております。そっから先は Mr. Moonlight( by Roy Lee Johnson )なんて世界が開けていくのでございますが、今回はここまで、とさせていただきます。

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