Mr. Moonlight

Piano Red


2004-09-10 FRI.


およそ世界で一番有名なイギリスのポップス・バンド (と言ったらイノチをふりしぼるようにしてポップスじゃない!ロック・バンドだ!とわめいていたヤツもおりましたが、またしても無慈悲に斬り捨てさせていただきます⋯つーか、Pops だったとすりゃどーなんだろ?って考えてみるっちゅう柔軟さって無いのかね、とワザと仕掛けてるんですけどね)のナンバーは、実にみなさん良くご存知のようですが、もしかするとこの曲って、やつらの曲の中では「ちょっとだけ」知名度が低い方の部類に入るかもしれません。
あ、でも初来日のTV放送ではイントロみたくして流してたから、オヤジ&チャンジーのみなさんは知ってるかもね。
その Mr. Moonlight、タマにはオリジナルもいかが?ってワケで登場いたしましたが、実はこれ歌ってるのは Piano Red じゃあこざいません。この曲の作者、Roy Lee Johnsonでございますよ。
Piano Red が 1961 年に作ったバンド、Doctor Feelgood and the Interns の曲で、Curtis I. Smithと思われるギターのストロークをバックに、なかなかいいテンションで、でもちょと粘っこく歌われる Mister Moonlight、タマにゃあ、こんな毛色の変わったのもオモシロいでしょ?
さて、昨日は彼のインタビューでの発言をメインにしておりましたが、「外から」のとはちと「整合しない」部分もございます。
例えば Blind Willie McTell と二人で始めたバンド(?)the Dixie Jazz Hounds(どこがやねん!というツッコミがありそうですが)の録音の件ですが、McTell のマネージャーだった W. L. Calaway のセッティングで Augusta のモーテルで、1936 年の 6 月と 7 月に行われた、Vocalion へのレコーディングでは数曲が吹き込まれた、とされています。
うむむ、本人と周囲とどっちゃを信じたらいいんでしょ? 
そこら、Screamin' Jay Hawkins なんかじゃ、本人の言ってることが「いっちゃん」アヤしかったりしておりますが、この Piano Red の場合も、本人の記憶があまり確かじゃないのかもしれません(そこら、昨日の父のエピソードのとこでも触れておりますが)。

ま、それはともかく、1933 年だか 1936 年だか定かではこざいませんが、カンジンのその録音ですけど、結局リリースされてないんですよ。それどころか、そのマスター (おそらくダイレクト・カットされたメタル・マスターだと思うんですが)も完全に紛失してしまったようでございます。
結局、Piano Red の初のレコードは昨日の Rockin' with Red と Red's Boogie になったのですが、この録音については、当時 Atlanta には「録音スタジオ」なんてものは無く、放送局のスタジオしか無かったから WGST で行われたみたいですよ。
後世、Piano Red の死後に、Rockin' with Red を Bill Lowery は世界初の「ロックンロールのレコード」なんて言ったようですが、ど〜なんでしょか。
ま、確かに Rockin' with Red は Little Richard( 1957 年、She Knows How to Rock のタイトルでリメイクし Specialty に吹き込み)や Little Jimmy Dickens ( Columbia に吹き込み)、Jerry Lee Lewis ( Sun だけど、たしかまだ収録されてないんじゃ?)なんかに力ヴァーされてはいますけどね。

さて、それを追うように吹き込まれたのが The Wrong Yo Yo(これは Carl Perkins によってカヴァーが Sun に吹き込まれてます)や Just Right Bounce、そして Laying the Boogie などで、それが 1951 年のことです。
ところで 1950 年代の前半から、彼は WGST で The Blues Caravan という番組を持っていた白人の Dj.、Zenas Sears と親しくなっていました。
Sears は WATL という局に移り、そこで手腕を発揮して経営者となるや、コールを WAOK に改め、R&B をダイタンに増やしたのだそうです。やがて WAOK はネットの手を広げ、その先っちょが RCA Victor にまで届いたことで同社のレコードのリリースを積極的に番組で紹介することでコネ(?)を作っていったようです。
また逆に Atlanta のミュージシャンを RCA 側に紹介することもしていたらしく、そこで WAOK のスタジオで生演奏をしていた Piano Red も、彼の尽力で Atlanta のウエストサイドにあった Magnoria Ballroom でのライヴを収録したアルバムをRCA 傘下の Grooveから出すことが出来たのでした。
およそ 1958 年までは Victor に吹き込んでいるのですが、彼の最後のアルバムは Nashville で、Chet Atkins のプロデュースで(!)製作されました。

1959 年、昨日も触れている Checker にシングル Get Up Mareを録音、という記録もあるのですが、Checker 側の資料では 1959 年ではなく、1958 年、カップリングは So Worried ( Checker 911 )となっているんですが?
さらに Jax というレーベルに 8 曲ほど吹き込み、それが Doctor Feelgood につながって行きます。
ここで再び Zenas Sears が登場し、その紹介で Columbia との契約が成立します。
1961 年、Columbia のサブ・レーベル Okeh からリリースされた Doctor Feel-Good (作は、バンドのギタリスト Curtis I. Smith )が例の Doctor Feelgood and the Interns(全員、白衣の医者の扮装でキメてたんだって!)のデビューとなりますが、その裏面に収録されていたのがこの Mister Moonlight でした。
結局、Doctor Feelgood and the Interns は Okeh に 1966 年まで吹ぎ込みを続けました。
また WAOK では 1967 年まで the Doctor Feelgood Show が続いています。
ただし、Columbia はあまり Doctor Feelgood and the Interns の売り込みには熱心ではなく、それに嫌気がさした彼はプロモーション・ツアーにヤル気を無くして、Atlanta の Muhlenbrink's Saloon( alt. Muhlenbrink's Tavern )に腰を落ちつけ、1969 年から 1979 年まで演奏を続けています。
それでも 1980 年代初頭にかけて何枚かのアルバムを録音し、さらには Carter 大統領のプロジェクトの一環としてヨーロッパ・ツアーにもでかけるという生活を送っておりました。

タバコも酒もやらない彼でしたが、1984 年、ガンと診断され、翌年の 7 月25日に息を引き取っています。

⋯というところでトツゼンではございますが、ワタクシのこの「ブルース日記」を LYCOS の日記サービスっちゅうとこで始めるにあたり、その登録者名を決めてくださいゆわれて選んだのが、この Doctor Feelgood からパクった Dr. Feelbad だったのでございます。なんでそんな名前に?なんて「これまで、誰にも」尋かれたこともなかったのではございますがすが、今回「これでもか!」とばかり Doctor Feelgood が登場しました記念(?)に白状いたしておきます。元ネタはこの Piano Red さんの芸名(あ、ピアノ・レッド自体も芸名ですけどね)からパクったのでございました。

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